अविनाशि तु तद्विद्धि येन सर्वमिदं ततम् ।
avināśi tu tadviddhi yena sarvamidaṃ tatam |
विनाशमव्ययस्यास्य न कश्चित्कर्तुमर्हति॥२.१७॥
vināśamavyayasyāsya na kaścitkartumarhati||2.17||
永遠不滅で プラマーナで知られず 体を支える人にとって
その支える体は終わりあるものである 故にバラタの子孫よ 戦え![2-18]
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全ての肉体は破壊の対象[アニッテャ]です。
全ての体を得るわたしは永遠[ニッテャ]です。
わたしは知識の対象ではない[アップラメーヤ]です。
知る手段[プラマーナ]を使い、知られるものではありません。
器や、植物や、体の様に知られる物のの1つではありません。
わたしは、ヴェーダを通してでさえ知られることはないのです。
ヴェーダーンタの教えを聞く前に、わたしは、そこに在らねばならないものです。
わたしという存在は、ヴェーダの様なプラマーナでも、知覚や推理でも知られることはありません。
探求は、探求するわたしが在る時にだけ可能です。
アートマーは「知識の対象」としては捉えられない。
しかし、知られていないものではありません。
それは、いつもそれ自身で明らかです[स्वतःसिद्ध svataḥ-siddha]
「私は存在する。I am.」という知識はいつもで明らで、既に自己証明されています。
私は既にアートマーを知っているのなら、何故ヴェーダーンタがプラマーナになり得るのか?
それは、私についての間違った観念を取り除くので、プラマーナの地位を持つのです。
アートマーの上に重ねられた全ての投影を取り除くことに関してのみ、プラマーナ・トヴァを持ちます。
知識は、無知を取り除くことに他ならず、無知の上に投影されたものでありえません。
無知を取り除くことだけが必要なのです。
ヴェーダーンタ・シャーストラが、その無知を取り除くことができます。
この詩の中でクリシュナは、全ての肉体は滅びるものではあるが、肉体に宿るものであるアートマーは、捉えられる対象物・客体ではなく、捉えるもの主体であるので(ここでは個人という主体[プラマーター]ではなく、真意としての主体)、滅びるものではないと言っています。
そして、最後にクリシュナは「ですからアルジュナよ、戦え!」と言って締めくくりますが、これはアルジュナに戦えと命令したのではないとシャンカラは言います。
クリシュナは戦いに従事することをすすめたのではなく、もちろん懇願でもなく、アルジュナの障害[プラティバンダ]である悲しみ、妄想を取り除こうとしたのです。
クリシュナは、ただただダルマでした。
「子育ては大変です。私は子供を育てるのをやめて、自分自身を探求したいのです」と、もし誰かが言うなら「子供の世話をしなさい」とクリシュナは言います。
たまたま戦場にいたアルジュナに「するべきことを、しなさい」とクリシュナは言ったのでした。
ギーターの中には、この場面の様に、理解すべき場面が幾つもあります。
意図する意味を人々が勘違いしませんように。