2018-05-07

2018/05/05ギーター第2章勉強会⑯

ナマステー♪

千葉市中央区のヨガ教室 ギーターヨーガ主宰やのちさとです^^

まず、前回の勉強会でお話したシャンカラ先生とプールヴァパクシーの対話(home study courseのp106~109までの内容)を書いておきますね。

シャンカラ先生が言います

न कथञ्चित् कञ्चित् हन्ति न कथञ्चित् कञ्चित् घातयति इति ।

どのようにも誰も殺さないし、どのようにも誰にも殺させない

उभयत्र आक्षेप एव अर्थः प्रश्नार्थासम्भावात् ।

両方とも否定のみの意味で、質問である可能性がない

हेत्वर्थस्य अविक्रियत्वस्य तुल्यत्वाद्

(アートマンが)変わらないという原因が同じなので

विदुषः सर्वकर्मप्रतिषेध एव प्रकरणार्थः अभिप्रेतो भगवतः।

知識を得た人の、全ての行いの否定を議論することのみが、バガヴァーンによって意図されました

हन्तेः तु आक्षेप उदाहरणार्थत्वेन कथितः।।

「殺す」という言葉によって、行いの否定が例え話として語られたのです

プールヴァパークシーが言います

विदुषः कं कर्मासम्भवे हेतुवि

知識を得た人は、行いが存在しないだなんて、どんな特別な理由からバガヴァーンは否定するのですか?

シャンカラ先生が言います

ननु उक्त एवात्मनः अविक्रियत्वं सर्वकर्मासंभवकारणाविशेषः।

何ですって?全ての行いが存在しない特別な理由は、アートマンの不変性であると既に言ってきました

プールヴァパークシーが言います

सत्यम् उक्तः न तु सः कारणाविशेषः,

それは分かります。しかしそれが特別な理由にはならないです

अन्यत्वाद् विदुषः अविक्रियाद् आत्महः।

知識を得た人と、アートマンが不変だということは違うものです

(※この人は、知識を得た人がアートマンであることを理解していない)

न हि अविक्रियं स्थाणुं विदितवतः कर्म न सम्भवति इति चेत् ।

柱は動かない、ということを知っている人が「行いは存在しない」、そんな話はないでしょう?

シャンカラ先生が言います

न विदुषः आत्मत्वात् न देहादिसङ्घातस्य विद्वत्ता ।

そうではないです。知識を得た人がアートマンですから
(柱は動かないという知識がある人は、動かない柱ではないですけどね)

————–

前回の勉強会ではp111「私は、行いをする人ではない」から読み進めていきました。

वेद III/1 अविनाशिनम् 2/1 नित्यम् 2/1 यः 1/1 एनम् 2/1 अजम् 2/1 अव्ययम् 2/1 ।

कथम् 0 सः 1/1 पुरुषः 1/1 पार्थ 8/1 कम् 2/1 घातयति III/1 हन्ति III/1 कम् 2/1 ॥२.२१॥

アルジュナよ。自分自身を不滅で、時間に捕らわれず、生まれないもの、老いないものと知っている人が、どのように誰を殺しますか?また、誰に殺すことを強いるのですか?[2-21]

わたし達は、自分自身をまるで行い手(カルター)だと見ていますし、時々後ろに退いてただ体験する時もあります(ボークター)。
アートマーはカルターでも、ボークターでもありません。

それは、まるで赤い色に染まった水晶が、赤い色から自由なように。
赤い色がただ現れていること、水晶は赤い色から自由なことを理解します。
赤い色にまるで染まる、という条件付けは知識によって終わります。

この知識が考えに宿るためにプラマーナ(知識の道具)、ヴェーダーンタシャーストラがあります。
目というプラマーナに色が起こるかは、目を開けて使わななければ実証できないように、ヴェーダーンタシャーストラというプラマーナも使ってはじめて自己証明されます。
「行い手ではないのが私」という知識を得ることができるのです。

私たちは「行い手ではない私」を見ることができません、見ているのが私なので。
この私、アートマーの知識は対象物の知識と同じようではなく、「主体」そのものについての無知を取り除くものだとシャンカラ先生は言っています。

その無知を取り除くことが出来る知識、ヴルッティ・ニャーナが、自分自身の無知を滅ぼすことができます。
「私は行いをする人ではない」という特別な事実は、今まで知られていませんでした。
この事実についての無知は、ヴェーダーンタの教えによってもたらされるヴルッティによって取り除かれます。
そして、そのヴルッティは、その仕事を終えると無知と共に消え去ります。

わたし達は今まで、様々なヴルッティを作ってきました。

日本語ヴルッティがあるので、日本語を聞いた時に、言葉の意味が理解できます。
日本語ヴルッティがない人は、日本語を聞いても言葉の意味が理解できません。

同じように、「私は行いをする人ではない」ヴルッティ、ヴェーダーンタヴルッティを作っていく必要があります。

でも、その知識がわたしのアンタッカラナ(考え)に定着しないと思うのであれば、わたしたちは、特別な種類のアンタッカラナが必要です。
これらの特別な種類のアンタッカラナを作っていく方法がヨーガで、ギーターがこのヨーガについて広範囲にわたって話してくれます。

その中でも、とても大事な態度がシュラッダーという態度です。
わたし達は今まで作ってきた考えを通して、ヴェーダーンタを聞こうとします。
誠実にコミットするというよりは、自分が今持っている信念を確証するためにヴェーダーンタを探求します。
言い換えれば、自分が聞きたいことを、ヴェーダーンタに言わせるということです。
この態度では、ヴェーダーンタが考えに起こりません。
今迄学んできたこと、自分で作ってきた信念を通してヴェーダーンタを聞くという比較の態度ではなく、誠実にコミットする態度が必要です。

次回の勉強会は5月26日(土)11:20~12:50です。
最後までありがとうございました。

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