2018-07-08

2018/07/07ギーター第2章勉強会⑳

ナマステー♪
千葉市中央区のヨガ教室 ギーターヨーガ主宰やのちさとです^^

7/7の勉強会ではギーター第2章25番目、26番目の詩を読み進めていきました。

अव्यक्तः 1/1 अयम् 1/1 अचिन्त्यः 1/1 अयम् 1/1 अविकार्यः 1/1 अयम् 1/1उच्यते III/1 ।

तस्मात् 5/1 एवम् 0 विदित्वा 0 एनम् 2/1 न 0 अनुशोचितुम् 0 अर्हसि II/1 ॥२.२५॥

この自分自身は、現れていなくて、考えで捉えられるものではないし、変化にさらされるものではないと言われています。
ですからあなたはそれを知る事で悲しむはずがありません。[
25

アートマーはアッヴャクタ、感覚器官の対象物ではない事に加え、

アチンテャ、どんな推理の対象でもなく、

またどんな変化も請け負いません。それがアヴィックリヤです。

アートマーはミルクの様な変化を請け負いません。

アートマーにとってはどんな変化もないので、アートマーが以前は幸せで、今は悲しいと言う事が出来ません。

しかし人は、アヴィヴェーカ(識別がない)の為に自分自身、アートマーを変化にさらされるものとして捉えます。

アートマーはサト(存在)・チト(意識)・アーナンダ(限り無いもの)です。

サト・チト・アーナンダはアートマーの属性ではなく、ラクシャナ・意味を明らかにする言葉です。

アートマーは、それ自身を変化にさらす属性を持っていないので、どんな時も変化を受けない、アヴィカーリャと言われます。

それは時間の中にないもので、アートマーはいつも今あるように、あり続けてきました。

アートマーをあるがままに、サト・チト・アーナンダとして知る事で、今まで持っていた私は肉体、考え、ちっぽけetc…アートマーに関する全ての観念が捨て去られます。

アルジュナはビーシュマとドローナが死ぬので、悲しんでいるのだとクリシュナに言いました。

これに対して、実際には誰にも死なないので、アルジュナはどんな悲しみも持つ資格がないと言う事でクリシュナは答えました。

もし誰も実際に死なないのであれば、何の為に悲しむのでしょうか?

人々は去り続けます。

彼らは皆、消え去るけれども、違った形で還ってきます。

アルジュナはこの説明をされ、この様な質問を言い返すことが出来たでしょう。

「私はアートマーについて心配していない。
それは永遠かもしれませんが、私はアートマーと握手する事は出来ません。
またサト・チト・アーナンダと話を楽しむことも出来ません。
でも、ビーシュマとは出来ます。
私はビーシュマの形をしたサト・チト・アーナンダを恋しく思うのです。
私はアートマーの為に悲しんでいるのではありません。」

アルジュナの悲しみがアートマーの為でなかったら、それはアナートマーの為です。

そうであっても悲しみは無益だとクリシュナは言いました。

アナートマーはアニッテャとして、常に生まれて、いつも死んでいきます。

生まれるという事は、以前の形を手放すことを意味し、以前の形を手放すことは、私達が死と呼ぶものです。

ですから誕生そのものが死をほのめかし、全ての誕生が死をほのめかしています。

अथ 0 च 0 एनम् 2/1 नित्यजातम् 2/1 नित्यम् 2/1 वा 0 मन्यसे II/1 मृतम् 2/1 ।

तथा 0 अपि 0 त्वम् 1/1 महाबाहो 8/1 न 0 एवम् 0 शोचितुम् 0 अर्हसि II/1 ॥२.२६॥

あなたがアートマーの事を生まれ続けるもの、死に続けるものと思うにしても、強力な武器の使い手、アルジュナよ!あなたはこの様にアートマーの為に悲しまないはずです[26

全てがアートマーであるとアルジュナが見る事が出来るなら、彼自身や他の誰にとっても死などはありません。

生まれるものには死があり、死んでいるものには誕生があります。

この意味においてさえ、悲しみの余地はないとクリシュナは言いました。

時間に捕らわれているものアニッテャを、どうやって止めるというのでしょう?

誰もそれを止める事は出来ません。

次回の勉強会は7月28日(土)11:20~12:50
27番目の詩から再度読み進めていきましょう。

最後までありがとうございました!

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