千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章11番目の詩②

श्रीभगवानुवाच ।

śrībhagavān uvāca

अशोच्यानन्वशोचस्त्वं प्रज्ञावादांश्च भाषसे ।

aśocyān anvaśocas tvaṃ prajñāvādān ca bhāṣase |

गतासूनगतासूंश्च नानुशोचन्ति पण्डिताः ॥२.११॥

gatāsūn agatāsūn ca na anuśocanti paṇḍitāḥ ||2.11||

バガヴァーンが言いました

あなたは博識なことを話しているが悲しまれるべきでないことを悲しんでいる

知識を得た者は、生きている者にも 息を引き取った人のためにも悲しまない

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賢い人[パンディタ]とは、アートマーとアナートマーを知る人です。

アートマーを知るなら、当然アナートマーも知っています。

アルジュナの悲しみは、アートマーとアナートマーの違いを知らないためでした。

わたしとわたしでないものの見極め[アートマ・アナートマ・ヴィヴェーカ]があればパンディタの様に悲しみません。

アートマーもアナートマーも 悲しみの原因ではないのです。

実用主義者の観点から悲しみを分析れば「どんな悲しみも収穫など無い」という結論です。

ヴェーダの教えに従う人[アースティカ]の観点から悲しみを見るなら、肉体を手放しても個人[ジーヴァ]は続くので、悲しみは問題ではありません。

ギーターの観点から見るなら、アルジュナは「悲しむな」と 忠告されたのではなく、悲しむ理由がない[ア・ショーチャ]と言われました。

ヴェーダの前半は、精神的な成熟の道のりにおいて子供である私達に、人間の特権である「自由意志」を意識的に使うこと、より調和な生活基盤を教えます。

考え[マーナサ]、言葉[ヴァーチカ]、体[カーイカ]という3つの側面を持つ行い[カルマ]を申し付けます。

小さな個人の考えでは、全法則を評価することなど出来ませんから、理解するまではそれに従います。

前半のヴェーダの主題はプラヴルッティ・アートマカ・シャーストラと呼ばれます。

前半のヴェーダの申し付けに従い、成熟した考えには、全法則の作者[イーシュワラ]が輝き、最終的に自分自身が永遠で、自由であることを発見します。

その発見のための道具、ヴェーダの後半[ヴェーダーンタ]がニヴルッティ・アートマカ・シャーストラと呼ばれます。

真実のわたしの上に投影される全ての観念が否定されるという意味でニヴルッティです。

悲しみとは、真実のわたしのの上に投影された何かです。

それが理解されなければなりません。

イーシュワラの慈悲は全てを取り除くので、ヴィシュヌ神はハリ、シヴァ神はハラと呼ばれ、この言葉は語源[hṛフル]から派生しています。

クリシュナは、この章の中で比較上でも、絶対的な観点からも悲しみの原因は無いということを立証していきます。

理由がない悲しみを抱いていると、ギーターが言うのは、私[アートマー]も私以外[アナートマー]も悲しみの原因ではないということです。

満ちているという本質であるアートマーは、アートマー以外のものに 影響され得ないことを明かします。

ロープに上乗せされる想像上の蛇は、ロープに影響を及ぼさない様に、波が水を破壊出来ないように、アートマーは、その上に投影されたどんなものにも影響されません。

悲しみとは、リアリティを認識できない為、アートマーの上に投影された何かです。

夢で野犬に追いかけられたとしても、目覚めると、その野犬に追いかけられることがない様に、同じリアリティに属しているものだけが関われます。

本質[スヴァルーパ]である水は、波によって影響されません。

同様に、本質[スヴァルーパ]であるアートマーは、アナートマーに影響されません。

ギーターは、主題である識別[ヴィヴェーカ]と、結果であるモークシャを繋ぐもので、何がわたし[アートマー]かを明らかにします。

それによって人は、賢くなる事が出来ます。

「悲しむ余地がない」と教えがはじまるのは、とても効力のあるはじまり方です。