नासतो विद्यते भावो नाभावो विद्यते सतः ।
nāsato vidyate bhāvo nābhāvo vidyate sataḥ |
उभयोरपि दृष्टोऽन्तस्त्वनयोस्तत्त्वदर्शिभिः ॥२.१६॥
ubhayor api dṛṣṭo antas tu anayos tattvadarśibhiḥ ||2.16||
存在のないもの[アサット]はどんな存在もなく、 存在[サット]は存在がないことなどない
これら2つの真実が、真実を見る人によって まさに知られている[2-16]
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サットとは、それ自身で存在するもの、ア・サットとは、自立して存在しないものです。
土で出来た壺があるとします。
「これは壺です」という時 壺は自立して存在しますか?
土がないと壺が存在しないなら 土が壺の原因[カーラナ]で 土と壺で言うなら、土がサットです。
原因があり、その存在を何かに頼っている 自立して存在できない壺はアサットです。
世界のどの様なものも それ自身で存在しているものなどありません。
何故なら、それらは移り変わるもので 、ただの形だけです。
ずっと同じではないし、同じであることができません。
壺は、土、壺は、単に名前と形[ナーマ・ルーパ]です。
土なくして壺はあり得ず、そして、土は壺ではありません。
ア・サットは、あるリアリティの秩序があります。
壺は、土がないと存在できませんが、無いというわけでもありません。
存在しない[ア・バーヴァ]の為のもう1つの言葉 、トゥッチャ[तुच्छ]があります。
例えば、人間も 角も存在しますが、その2つを組み合わせたもの、人間の角は存在しません。
壺は、存在しないもの[トゥッチャ]でもありません。
サットでも、トゥッチャでもない、そのリアリティがア・サットで、同義語がミッティャーです。
壺が焼かれる前、土だけがあります。
かつて壺は土でしたが、それが壺になった時、土は、付け加えられた属性[グナ]がります。
この付け加えられた属性[グナ]が、創造( creation)として意味されるもので、そこには創造の可能性があります。
しかし、土がなければ壺はありません。
更に、土も他のものに頼っていますから、土をサットと呼ぶことも出来ません。
その存在を、何か他のものに頼っていないものが サット、もしくはサッテャと言います。
原因自体も、他の原因に頼っているなら、それもまたア・サットです。
私が壺を見る時、「壺の認識」があり、私は「壺がある」と言います。
壺の認識[ブッディ]は、移り変わり、これをア・サット・ブッディと呼びます。
変わらないものは、サット・ブッディと呼ばれます。
私が見ていた壺は、植木に置き換えられます。
私は「壺がある」と言いましたが 今は「植木がある」と言います。
これを分析するなら「ある」という認識は、決して無くならない事が分かります。
壺はア・サットなので去ってしまい、今植木と共にサットはあります。
「植木の認識」が去る時 「葉っぱの認識」があります。
何であれ、残された認識がそこにあります。
残っているものが、ある[サット]、 ある[サット]はいつもあります。
この様に全ての知覚において、 ア・サット・ブッティとサット・ブッディという2つのブッディがあります。
私が「青い壺」と言う時、「青い」も「壺」も同じものを示します。
青いものは壺で、壺は青いものです。
「音楽家のモーツアルトに会いました」 と言う時、モーツアルトと音楽家は同じものです。
名詞と形容詞があり、「青い」は壺の形容詞です。
しかし、私が「壺がある」と言う時 「ある」が壺の形容詞のようですが、それは正しくありません。
壺が「ある」に対する形容詞で、壺らしさが、「ある」を修飾します。
ア・サット・ブッティとサット・ブッディ、いつも2つのブッディがあります。
考えの形の中にも「ある」はあります。
もし、考えが無くても そこにあるのは、考えを差し引いた存在です。
何かを付け足しても、何かを差し引いても 存在[サット]は、影響されずいつもあります。