千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章16番目の詩②

नासतो विद्यते भावो नाभावो विद्यते सतः ।

nāsato vidyate bhāvo nābhāvo vidyate sataḥ |

उभयोरपि दृष्टोऽन्तस्त्वनयोस्तत्त्वदर्शिभिः ॥२.१६॥

ubhayor api dṛṣṭo antas tu anayos tattvadarśibhiḥ ||2.16||

存在のないもの[アサット]はどんな存在もなく 存在[サット]は存在がないことなどない

これら2つの真実が、真実を見る人によって まさに知られている[2-16]

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壺が壊れ、壺の認識も無くなってしまう時、ある認識[サット・ブッディ]も無くなりますか?

壺が壊れても、名前や形[ナーマ・ルーパ]は 無くなりますが、サット・ブッディは無くなりません。

壺が無くなっても、植木があります。

ただ属性だけが変わりました。

サット・ブッディは、壺に形容されていましたが 今は、植木に形容されています。

人間の角は、存在しないもの[トゥッチャ]でした。

「人間の角がある」は、間違いで 、正しくは「人間の角がない」です。

’’無いがある’’のですから、サット・ブッディはどんな風にも変化しません。

サット・ブッディ、つまりアートマーであるサットは 熟睡中もそこにあります。

それが、私達が睡眠を体験したい理由です。

サット・ブッディは、夢の中にもあります。

このリアリティの秩序が違うサット・ブッディとアサット・ブッディが、どの様にして組み合わせがあり得るのでしょう?

壺など形容される名詞がない時も、何も問題なく結びつく事ができます。

例えば、砂漠の蜃気楼で、水があろうとなかろうと、水があると想像するだけで「水がある」と言います。

また1本のロープに投影された間違いの蛇にも、本物のロープにも、どんな物にもサット・ブッディが、アサット・ブッディを支えています。

サット・ブッディの対象物は、アートマーで、サットを装っています。

つまり、サットにとって無い[ア・バーヴァ]は有りません[サタハ アバーヴァハ ナ ヴィッデャテー]。

これに基づき、体[デーハ]を見るなら、体[デーハ]はアサットです。

悲しみの原因はありません。

「考えがある」と言う時、あるが、意識[アートマー]です。

考えは、意識の付帯的なもので、考えは名前と形[ナーマ・ルーパ]で、外側に対象を持つ考えは、知覚と呼ばれます。

知覚の範囲を超えるなら、それは推理、イマジネーション、または記憶です。

それが何であれ、考えがあります。

名前と形に条件付けされた意識に他ならないのです。

ナーマ・ルーパが無いなら 「ある」のは、変わらず、意識、本質[サット]と、本質でない[アサット]。

これら両方の本質的な在り方が、サットはサットとして、 アサットはアサットとして 真実を知る人々によって見られています。

真実[タットヴァ]という言葉のタットとは、全ての名前、全てとはブランマンです。

その名前をタットとし、その在り方がタットヴァ、つまりブランマンの在り方そのものです。