千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章21番目の詩

वेदाविनाशिनं नित्यं य एनमजमव्ययम् ।

vedāvināśinaṃ nityaṃ ya enamajamavyayam |

कथं स पुरुषः पार्थ कं घातयति हन्ति कम् ॥२.२१॥

kathaṃ sa puruṣaḥ pārtha kaṃ ghātayati hanti kam ||2.21||

プルターの息子よ。これ(自分自身)を不滅で、時間に捕らわれず、生まれないもの、老いないものと知る人が

どの様に、誰を殺しますか?また、殺すことを強いるのですか?[2-21]

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前の詩で見たように、アートマーは殺しもしないし、殺されもしません[ナ ハンティ、ナ ハンニャテー]。

アートマーは、殺すという行い[ハナナ クリヤー]を含む、あらゆる行い[クリヤー]の主体、対象でもありません。

その理由は、アートマーが変化するものではないからと、クリシュナは説明しました。

生まれない[アジャ]、どんな種類の衰えも体験しない[アッヴャヤ]、死や破壊の対象ではない[アヴィナーシ―]、時間に捕らわれないもの[ニッテャ]である、すなわちバーヴァ・ヴィカーラを持たないと結論付けました。

◎人は誰を殺すのか、また誰に殺すことを強いるのか?

2種類の行いがあります。

1つは、私がする行い、もう1つは、私が他者にさせる行いです。

2人とも行いをしますが、ここで理解すべき事は、アートマーは、どんな行いもしないし、望むことすらしません。

殺しもしないし、他の誰かに殺させたりしません。

アートマーは全ての願望の本質[スヴァルーパ]です。

願望は名前と形[ナーマルーパ]、考えで、その考えは何かと絞り込むなら、アートマーに行き着き、そこには考えなどありません。

あらゆる考えや欲望、行いをする人という観念もミッテャーです。

行いをする人は誰か?と分析するなら、行い手は、意識[チャイタンニャ]に他なりません。

行い手は、意識の中に消えてしまい、そこには全くいないということです。

行い手がある時、意識はありますが、その意識の中に、行い手はなく、ただドラマがあるだけです。

本当の行い手ではなく、ただ「まるで」行い手がいるだけです。

「まるで」聞き、「まるで」話し、「まるで」歩き、「まるで」立ちます。

アートマーはいつも自由で、行い手は全くありません。

「私は行いをする人である」という観念が行いの源です。

行い手[カルター]なしに、行い[カルマ]などありません。

行いをする人であるという観念[カルトゥルットヴァ]なしに、行いなどありません。

この行いをする人であるという観念は、行いが行いであるために、体験する結果[カルマパラ]が、カルマパラである為に、必要な、血、骨、そして肉を与えるものです。

この全サイクルが、中心人物である行い手[カルター]に基づいています。

◎誰が行いをする人なのか?

疑問が起こるかもしれません。

全ての行いを手放した人[サルヴァ・カルマ・サンニャーシー]は、どんな行いも全く行わないのでしょうか?

サルヴァ・カルマ・サンニャーシーは、「私は行いをする人です」という観念を持っていない人です。

その人には、アートマーにおける行い手の観念はありません。

単に行い[カルマ]をしないことが、サルヴァ・カルマ・サンニャーシーではありません。

例え、どんな行い[カルマ]もしないとしても、「私は行いをする人である」という観念があるならサムサーリーです。

サルヴァ・カルマ・サンニャーシーは、知識[ニャーナ]で、全ての行い[カルマ]から完全に自由な人です。

もし何か行い[カルマ]が為されても、ニャーニーにとって起こっている事は、考えに支えられた感覚器官が、それぞれの活動エリアにただ従事していることです。

ニャーニーは、自分自身を行い手[カルター]と見てはいません。

これがサルヴァ・カルマ・サンニャーシーの本当の意味です。

その人は知識を持つ人[ヴィッドヴァーン]と呼ばれます。

この特別な発見の中に、全ての祈りが実り、この発見の為だけに、祈りや、行いが為されました。

カルマヨーガはこの為だけにあります。

ジャナカ王という王様は、知識を得た人と見なされていましたが、王国の統治者という役割があり、その役割に悩まされてはいませんでした。

ジャナカ王の様に、知識を得ていながら、社会の中で生きていくことも出来ますし、人生の4つ目のステージを生きる人[サンニャーシー]、どちらの生き方も可能です。

ニャーニーは、どんな行いをしようがしまいが、その行いに影響されたりしません。

◎私は行いをする人ではない

もしアートマーが行い手[カルター]なら、常にカルターでなければなりません。

それがアートマーの本質なら、行いをする人として、いつも何かをすべきですが、そうでありません。

時々、後ろに退き、全く何もせずただ体験をする時もあります。

体験者という状態[ボークトゥルットヴァ]だけを見て、行い手という状態[カルットゥルットヴァ]は見ません。

同様に、もしボークトゥルットヴァが、アートマーの本質なら、アートマーはいつも体験する人[ボークター]でなければなりませんから、アートマーは、カルターでもボークターでもありません。

また、行い手も、体験者もない時、例えば、2つの考えの間の様に「私という感覚」が全くない時もあります。

◎アートマーは知ることができるのか?

「私は行い手ではない」という知識を、私はどの様に得ることができるのでしょうか?

アートマーの知識は、主体そのものについての無知を取り除きます。

自分自身についての無知があると、認識している人だけが、無知を取り除くことができます。

この知識が「私は行いをする人ではない」です。

この考え[ヴルッディ]が、自分自身についての無知を滅ぼすことができます。

その真実についての無知は、教え[ウパデーシャ]でもたらされる考え[ヴルッティ]によって取り除かれます。

そのヴルッティは、その仕事を終えると、無知と共に消え去ります。

その為の完璧な、知識が定着する法論[プラックリヤー]がありますが、その知識には、ヴェーダーンタの言葉が働く成熟した考えが必要です。

ギーターでは、ヴェーダーンタに加え、考えの準備のための生き方[ヨーガ]というライフスタイルについて言われます。

長年培ってきた自分イズム、自分の信念を確証するために聖典を探求するのではなく、誠実に真実にコミットします。

「私は行い手ではない」という真実を何度も熟考することが、すべきことです。

◎知的な誠実さの重要性

ヴェーダーンタは、確かなでないことを提案しているのでもなく、いつかモークシャがあると、約束しているのでもなく、既に私はモークシャで、アカルターであり、滅びる事のないもの[アヴィナーシー]と言います。

その言葉をしっかり分析するなら、そこに否定などありません。

否定には、物理的な否定、禁止[ニシェーダ]と、知識による否定[バーター]のニ種類があります。

例えば、「太陽は昇る」と、知覚を元に結論付けますが、実際は地球が回っています。

「太陽は昇る」という、知覚レベルの結論を否定します。

同様に、孔雀の羽根に様々な色を見ますが、実際、色の現れは、光を反射する異なるプリズムのような構造の為です。

これらは、知識による否定[बाधाバーダー]です。

知覚そのものを否定しているのではなく、地球が自転しているので太陽が昇るように見える、孔雀の羽根そのものに色がある、ということを否定します。

同様にヴェーダーンタも、アートマーにおける「私は行い手であるという観念[カルトゥルットヴァ・ブッディ]を知識によって否定します。

体験はそのままに、知識によって見抜くことで、ただただ認識の変化があります。

ニャーニーは何をしていても、「私は行いをしない」ということを知っています。

これが知識[ニャーナ]で、それを失う事は決してありません。

◎これ以上なされるべきことはない

サルヴァ・カルマ・サンニャーサとは、「行いをしない」のではなく、行いの中に、行いの無い事を理解しているのです。

例えば、「料理をする」という行いを見るなら、台所に立つ、米を研ぐ、水を流す、、、という行いの連続です。

それらどれ1つとっても「料理をする」ではありません。

「料理をする」という行いに実体はないのです。

しかし、自由意志を使ってする行為カルマ]はあります。

このヴェーダーンタの知識は、行いを通してのみ培われます。

モークシャとは、カルマの束縛からの自由です。

サルヴァ・カルマ・サンニャーシーは、私はアカルター、いつも満ちている[プールナ]という知識[ブッディ]を持ち、為されるべき事を全てしてきました[クルッツナ・カルマクルトゥ4-18]。

その人が、何をしていようと、それは行いの結果のを追い求めているのではなく、神の視点から、ただすべきことをしている、またはプラーラブダ・カルマの結果のためにしているだけなのです。