千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章22番目の詩

वासांसि जीर्णानि यथा विहाय नवानि गृह्णाति नरोऽपराणि ।

vāsāṃsi jīrṇāni yathā vihāya navāni gṛhṇāti naro'parāṇi |

तथा शरीराणि विहाय जीर्णान्यन्यानि संयाति नवानि देही ॥२.२२॥

tathā śarīrāṇi vihāya jīrṇānyanyāni saṃyāti navāni dehī ||2.22||

ちょうど人が古い服を捨て、新しい服を手に入れるように

体を持つ人は古い体を捨て、別の新しいものを手に入れます。[22]

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ナラという言葉は、人間という意味ですが、語源的には「滅ぼされないもの」という意味です。

知識を得るなら、永遠のブランマンとして生き続けます。

もしそうでなければ、その人は単に生きているに過ぎません。

ここで使われた例え話は、新しい服、またはもっとよい服の為に古い服を捨てることです。

同様に古い体[シャリーラ]は捨てられ、新しい体が得られます。

シャリーラという言葉は、破壊の対象であるものという意味です。

体は自然な老化や病気、または使い倒され、やがて役に立たなくなります。

役に立たなくなると、それらを捨て、新しいものを手に入れる、というサイクルが何度も繰り返されます。

同様にこの体に住む人で[デーヒー]、この体を着る人、「〇〇さん」と呼べる人がいて、その人が新しい服を手に入れます。

アートマーはニッテャで、いつも生き続けます。

個人の観念[ジーヴァットヴァ]が死ぬ時ですら、ジーヴァは死ぬことはなく、観念だけが死ぬのです。

決して主体であるアートマーそのものが消えたりせず、体に宿る人[デーヒー]は、存在し続けます。

◎衣服としての体

古い体は、役には立たないので、人はそれを手放します。

しかし、癌などで若くして亡くなる人がいるように、この例は、全ての場合に当てはまらなそうです。

誰かの過ち、不注意などによる事故、自由意志の悪用による、殺人で亡くなることもあります。

例えば、銃弾は肉体[ストゥーラシャリーラ]を破壊しますから、微かな体[スークシュマシャリーラ]は、その中で生きることが出来ません。

車が動くために、点火プラグ等の物を必要とする様に、スークシュマシャリーラが物理的な体の中で働く為の必要最低限の物があるように、肉体が動くためには、心臓と腎臓がなければならず、これらが破裂するなら、肉体は年齢に関わらず役に立ちません。

昨日買ってきた新しい車が、今日壊れる事もあるように、この肉体も壊れるかもしれません。

体に宿る人[デーヒー]は、新しい体を探されなければなりません。

若い人が、白血病や、原因不明で亡くなる時、過去世で相当悪いことをしてきたのだろうと、私達は言うことはできません。

悪いことをしたかもしれませんが、それで癌になるのではありません。

肉体はまだ使い古されていないのに、乳児の突然死、エネルギッシュな人の心臓発作での死などが、なぜあるのでしょう?

◎神とは専制君主ではない

神の意志ではなく、その人のカルマの為に、その体に宿ったのです。

自分自身の人生で、この特別な運命を求めたということです。

神とは法則ですから、私達はそれを求め、それを得ます。

神は「私があなたを創りましたが、同時に私はあなたを創ってはいない」と言います。

人👱と、火🔥の伝統的な例え話です。

👱「あなたは私を燃やしましたね?」

🔥「はい、私はあなたを燃やしました」

👱「なぜ燃やしたのですか?」

🔥「私はあなたを燃やしてなどいません」

👱「あなたは今、私を燃やしたと言ったのに、燃やしていないとなぜ言うのですか?どうしてそんな気まぐれなのですか?」

🔥「あなたが私の中に手を入れるので、私は燃やしました。燃やすことが私の本質[スヴァルーパ]ですから。私があなたの手を燃やしましたが、私はあなたの手を追いかけてなどいません。あなたが私に手を突っ込み火傷したのです。あなたがそれを求めたのです。」

これが法則、カルマの法則です。

個人として肉体を持ち生まる原因は、過去の行いで、その結果として、人は再び結果を実らせるに適した肉体を持ち生まれてきます[プラーラブダ・カルマ]。

肉体を生き延びる魂を受け入れるなら、直面する様々な状況を必ず考慮に入れなければなりません。

この様にプラーラブダ・カルマは、人[デーヒー]が仕事を終えると滅びてしまう特定の体[デーハ]を持つ理由です。

◎新しいものとは何か?

新しいか古いかは、デーヒーによって決められます。

個人(傍観者)から見れば、死の準備はできていないかもしれませんが、デーヒーから見れば、その肉体の仕事は終わっています。

本人、他の誰かの自由意志の乱用という、間違った行いによって引き起こされた死でない限り、肉親に先立たれた人々は、その死は早すぎると見るかもしれませんが、それはデーヒーの立場から見たものではありません。

肉体の仕事がいつ終わったのか、肉体が持たれた目的がいつ達成されたのか、それを決めるのはデーヒーです。

人が新しい服を得て、古い物を手放すように、体に宿るジーヴァは古い体を手放し、新しい体を得ます。

肉体に宿る人[デーヒー]にとって、死というものはありません。

肉体は時間に捕らわれ、変化するもので常に変化し続けます。

肉体が変化しない時などありません。

シャリーラやデーハと呼ばれます。

デーハとは火葬されるものという意味で、シャリーラとは崩壊するもの、埋葬されるものという意味です。

肉体はいつも死の対象で、常に死に続けています。

それは突然、ある晴れた日に死ぬというのではなく、むしろ死に続けています。

あなたはそれを止めることは出来ません。

しかし、デーヒーの場合、あなたはそれを滅ぼすことが出来ません。

デーハとデーヒーが、はっきりと理解されるなら、悲しみの理由などありません。

「悲しみの原因がない」というのがギーターの宇宙観です。