2018-09-27

【ギーター】第2章29番目の詩②

2018/09/22

आश्चर्यवत् पश्यति कश्चिदेनमाश्चर्यवद्वदति तथैव चान्यः ।

āścaryavat paśyati kaścidenamāścaryavadvadati tathaiva cānyaḥ |

आश्चर्यवच्चैनमन्यः शृणोति श्रुत्वाप्येनं वेद न चैव कश्चित् ॥२.२९॥

āścaryavaccainamanyaḥ śṛṇoti śrutvāpyenaṃ veda na caiva kaścit ||2.29||

ある人は自分自身を驚きと見ます。

同様にある人は、それを驚きとして話します。

ある人は驚きとして聞きます。

更にある人は、この自分自身について聞いた後でさえ

それを全く理解しません。[29]

どうしてわたしを理解できないのでしょうか?

わたしは微積分学や、ある程度の知的な準備

鋭い洞察力を必要とするものではなく

必要な事は、言われたことを理解するだけです。

しかし、それを理解できません。

なぜなら、自分自身を理解する事は

ある物事を理解する様な事ではないからです。

それは、物の知識ではありません。

わたしを理解することは、決して否定されないもの

という自分自身の知識で、それは全体の知識です。

アートマーは、全ての属性から自由である全体

そう理解されなければなりません。

そして、それはあなた自身です。

全ての属性は付随的です。

知られるべきことは、とても明らかです。

微積分学の様な専門的な知識は要りません。

微積文学を学ぶ為には、賢い人も「1+1=2」からはじめ

それを理解する為には、歳月が必要です。

一方アートマーは、とてもシンプルです。

必要なのは、人生経験だけです。

あなたが常に探してきたことも

探しても答えが見つからなかったことも事実です。

そしてその間、あなたには喜びの瞬間があった、これも事実です。

この2つの事実が、アートマーを理解する為に分析すべきことです。

色んな経験は要りません。

起きている状態、夢を見ている状態、熟睡の状態を知っていれば

十分なデーターとなります。

ある状態が、別の状態を引き下げる

それが分かるだけで十分です。

必要な事は、誰かがあなたの世界観を向上させると言う事です。

その為に、知る為の道具[プラマーナ]

先生[アーチャーリヤ]そして世界観[ウパデーシャ]

これで、あなたはには理解が起こるはずなのです。

目があり、物があるなら、あなたはそれを見ます。

同じ様に、教えがあり、アートマーがあるなら知識は起こるのです。

知識を得る為にどんな障害もありません。

しかし、それでも理解が起こらないかもしれません。

理解しないことが、この詩で不思議と描写されます。

クリシュナは、理解する事は驚きだ

そして理解しない事はもっと驚きだと述べます。

アーシュチャルヤヴァトという言葉

接尾語[ヴァト]は「まるで」という意味です。

ですから、アーシュチャルヤヴァトは

「まるで不思議」という意味です。

多くの探求者の中で、たった1人の人が真実を理解するかもしれません。

アートマーを知る人、それを直接理解する人

[ヤハ アートマーナム パッシャティ]

その人は不思議です。なぜならその人は

全てをひっくり返さなければならなかったのですから。

考え方や、追及などにおいて、私達の生来の特徴は踏みならされた道に従う(常識に従う)と言う事です。

私達は、自分を役立たずとて責めるので

常に自分自身を何とかしようと努力します。

アートマーをうまく向上させようとします。

アートマーはサムサーリーだと考え

サムサーリーがより良くある為に

心身共に向上出来る様に、色んな方法を探します。

アートマーは、意気消沈しているものと考え

それが受け入れられる為には、サポートが必要

そう考えるのが人です。

人々は踏みならされた道に従う傾向にあります。

お金を稼ぐ方法は色々あり、違いがあったとて皆が辿る道です。

ほんのちょっとの違いに、人々は独創的だと言いますが

本当に独創性な人は、自分自身を疑問に思う人です。

その人は、自分自身に問いかけます。

「私はサムサーリーだろうか?」

自分はサムサーリーであると思い込むなら

誰もが辿る道を歩むことになります。

自分はサムサーリーであるかどうかを問う人は

山を登る水の様に、全ての過程をひっくり返します。

山を登って流れる水は、本当に驚きで

注目を浴びるアーシュチャルヤです。

全人類が、水が山を登るのを見る為に集まるでしょう。

この自分探しに至るまでには、慈悲が必ず必要です。

丘の上へ水を送るのに、たくさんの馬が必要である様に

誰もが辿る道を辿ってきた人が

「自分はサムサーリーなのだろうか?」と問う事は

多くの馬力を必要とします。

神の力、あるいは慈悲です。

そしてもし、その人が真実を発見したなら

明らかにそれは驚くべき人です。

知る人は、アーシュチャルヤで

それを話す人もアーシュチャルヤです。

なぜなら、事実、話す事など何もないのですから。

誰かが「私は悲しみに圧倒されています」と言う時

真実を知る人は、どんな悲しみも問題も全く見ないので

それについて話す事は出来ません。

”問題などない”と言う人が、それを話し

悲しみがある人に、真剣に答えることも不思議です。

悲しみの理由などない[アショーチャーン アンヴァショーチャハ トヴァム]

と言って、教えを始めることは、話す為の余地を作ります。

そうでなければ、知っている人は

全く話す事が出来ないでしょう。

「わたしはアーナンダ、あなたもアーナンダ、皆アーナンダ」

とクリシュナが言っていたら

何も話すは出来なかったでしょう。

自分は悲しいという人に「いいえ、あなたはアーナンダ」と言う

それは真実ですが、話す余地を全く与えません。

悲しみに何の根拠もない、と言うには証明が必要です。

クリシュナの言葉が事実であることを証明する為

ギーターは、17章あります。

「あなたはアーナンダです」と言うなら

アルジュナに話す余地を全く与えられない事を

クリシュナは知っていました。

ですからクリシュナは、まるで問題があるかの様に話しました。

そしてまた、クリシュナはそれを「まるで」解決したのです。

話す事が出来ない事が話されているので

それを話す事自体がアーシュチャルヤです。

言葉で述べられない事が述べられています。

言葉で捉えられない事が言葉で紹介されています。

これは本当に不思議です。

実用主義の人に、わたしを学んでいる

あなたが言うなら、間違いなくおかしな人でしょう。

自分自身とは話す事が不可能で

それを聞こうとする、76億人の内1人が不思議なのです。

その人は、自分自身の知識が大切だと考えますが

他者はそれをくだらないと考えます。

私を学ぶため、何年もの時間を費やす人は

時間を無駄にしていると思われます。

その時間があれば、子供が2人作れるよ

と、彼らは言うでしょう。

この不思議、驚きは多くの側面があり

どんな風に見ようともそれは驚きです。

アートマーを見る事が出来る人は驚きで

アートマーを見る人は、驚きを持って見ていると言う事が出来ます。

教えを聞いても、理解しない人々がいることは

少しも驚きではありません。

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