2019-02-22

【ギーター】第2章41番目の詩①

2019/02/16

व्यवसायात्मिका बुद्धिरेकेह कुरुनन्दन ।

vyavasāyātmikā buddhirekeha kurunandana |

बहुशाखा ह्यनन्ताश्च बुद्धयोऽव्यवसायिनाम् ॥२.४१॥

bahuśākhā hyanantāśca buddhayo’vyavasāyinām ||2.41||

クル一族の子孫よ!これ(モークシャ)に関し

1つのハッキリと確かめられた理解があります

見極める努力が不足している者の観念は

多くに枝分かれし、全く数えきれません[2-41]

ギーターの宇宙観は、あなたは既に自由なので

それ以上に良いものにする事は出来ません。

あなたは既にパラム・ブランマンですから

自由にするものは、ただ知識のみです。

それを得る為に師を見つけ、知識を求めるべきです。

しかし、教えが伝えられたにも関わらず

人がその知識を得るという保障は全くありません。

それは、知識が起こるはずの場所の

準備出来ていないかもしれないからです。

知識は考えに起こります。

肉体的に成長し、成人であったとしても

教えを受け取る為の考え[アンタッカラナ]の

準備が整っているわけではありません。

定まった成熟[ヴィヴェーカ]が必要です。

単なる好奇心ではなく、ある種の見極め[ヴィヴェーカ]を持ち

この知識を望んでいなければありません。

そうしてのみ知識を求め、受け取る期待が出来ます。

その知識を受けとる為に必要な考えが

カルマヨーガによって完成されます。

祈りの考えと、その態度でカルマヨーガを行い

カルマヨーガのライフスタイルを選ぶことが出来ます。

あるいは知識[サーンキャ]の為の

引退の人生を選ぶことも出来ます。

知識を探求する為に、あらゆる活動を排除しサンニャーサを得るので

サーンキャとサンニャーサは共にあります。

単にサンニャーシーになることで悟るわけではありません。

サンニャーシーも、知識を得なければなりません。

同様に、カルマヨーガだけでは自由を得れず

あなたは知識を得なければなりません。

知識は、カルマヨーガとサンニャーサ両方に共通して必要です。

知識が自由にします。

その為、ヨーガで準備された考えを必要とします。

サンニャーシーは、サマーディの最終的な段階まで

アシュターンガ・ヨーガに従うかもしれませんが

これは、知識を得る為のアンタッカラナを清らかにする為

成されなければならない行いですから

カルマヨーガの中に入ります。

考えのムラの無さを得る為のテクニックは

サンニャーシーも使うかもしれません。

手段とゴールは1つです。

この詩のヴャヴァサーヤという言葉は

自分が何を求め、何をすべきかについての

はっきりとした考え[ニシュチャヤ]を意味します。

唯一のゴール、モークシャ、それは知識[ニャーナ]です。

そのゴール、目的地が明確なだけでほぼ達成です。

それがまさに私が求めているもので

限られている、というセンスからの自由で

その自由は、ただ自分自身の核心で

私の外側にはあり得ないことを、理解することが

ゴールが明らかである事を意味しています。

既に自由であることを知らなければなりません。

もし、私が束縛されている人なら

決して自由になる事は出来ないという事を理解しなければなりません。

既に自由なら、私はそれを知るべきです。

私が求めているものは、そういった自由で

それが在るということ

それはニャーナの形をしているのす。

100人の探求者達全員が、何を求めているのかが明らかで

知識の追求に専念するのなら、シュラッダーは皆に共通です。

考えを準備する事に関してだけ、違いがあり得ます。

一旦考えの準備が出来ると、それはあてもなく彷徨いません。

しかし、目的地が定かでなければ

曲がりくねった川の様に、考えはあらゆる所を彷徨います。

ヴャヴァサーヤートミカー・ブッディがないので

何が為されるべきかの優先順位に混乱します。

カルマヨーガであろうと、ニャーナヨーガであろうと

焦点は同じ知識で、知識は異なり得ません。

1+1=2です。

カルマヨーギーは、安全や、喜びの為

より良い人になる為、そんな理由からカルマを行ったりしません。

最初はそう考えていたかもしれませんが

カルマヨーギーは、その様には考えません。

カルマヨーギーはサンニャーシー同様ムムクシュで

モークシャのみに熱望する探求者です。

誰も彼もが何らかのゴールを視野に入れ、カルマを行いますが

ゴールは、多くの枝[バフシャーカハ]多くの枝があります。

それぞれの人が、自分自身の道を行くということです。

それらは終わりなく、数限りなく[アナンタ]。

お金を求めれば、その追及には終わりがありません。

権力を求めても、きりがありません。

喜びも同じです。

何を追求しようとも、追及に終わりが無い事を見るでしょう。

何を求めているかが、明らかでない人々は

とりとめのない考えを持ちます[バフシャーカハ ブッタヤハ]。

数多くのゴールが、多くの手段で成し遂げられるので

手段とゴール、どちらも数に限りがありません。

考えが明確でない時、優先順位が常に問題で

何もかもが同じように大切に見えます。

一方、知られるべき事が明らかな人は

エーカーブッディがあります。

ヨーガに関してもエーカーブッディです。

永遠とそうでないものの識別

[ニッテャ・アニッテャ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ]から

カルマヨーガは生まれるのですから。

私達がしなければならない事は

好き嫌い[ラーガ・ドヴェーシャ]を処理する事です。

これらが中和されなければなりません。

その為にカルマヨーガが必要です。

カルマヨーガせず、サンニャーシーになったり

1人で知識を追求しているとしても

ラーガ・ドヴェーシャは処理されなければなりません。

知識の探求そのものががラーガ・ドヴェーシャを

上手く処理する事を助けるかもしれません。

全てのラーガ・ドヴェーシャを処理してから

知識を探求するという事ではなく

あなたは知識を探求し、ラーガ・ドヴェーシャを取り扱います。

これがアルジュナのした事でした。

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