千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章41番目の詩①

2019/02/16

व्यवसायात्मिका बुद्धिरेकेह कुरुनन्दन ।

vyavasāyātmikā buddhirekeha kurunandana |

बहुशाखा ह्यनन्ताश्च बुद्धयोऽव्यवसायिनाम् ॥२.४१॥

bahuśākhā hyanantāśca buddhayo'vyavasāyinām ||2.41||

クル一族の子孫よ!これ(モークシャ)に関し

1つのハッキリと確かめられた理解があります

見極める努力が不足している者の観念は

多くに枝分かれし、全く数えきれません[2-41]

-

ギーターの宇宙観は、あなたは既に自由なので

それ以上に良いものにする事は出来ません。

あなたは既にパラム・ブランマンですから

自由にするものは、ただ知識のみです。

それを得る為に師を見つけ、知識を求めるべきです。

しかし、教えが伝えられたにも関わらず

人がその知識を得るという保障は全くありません。

それは、知識が起こるはずの場所の

準備出来ていないかもしれないからです。

知識は考えに起こります。

肉体的に成長し、成人であったとしても

教えを受け取る為の考え[アンタッカラナ]の

準備が整っているわけではありません。

定まった成熟[ヴィヴェーカ]が必要です。

単なる好奇心ではなく、ある種の見極め[ヴィヴェーカ]を持ち

この知識を望んでいなければありません。

そうしてのみ知識を求め、受け取る期待が出来ます。

その知識を受けとる為に必要な考えが

カルマヨーガによって完成されます。

祈りの考えと、その態度でカルマヨーガを行い

カルマヨーガのライフスタイルを選ぶことが出来ます。

あるいは知識[サーンキャ]の為の

引退の人生を選ぶことも出来ます。

知識を探求する為に、あらゆる活動を排除しサンニャーサを得るので

サーンキャとサンニャーサは共にあります。

単にサンニャーシーになることで悟るわけではありません。

サンニャーシーも、知識を得なければなりません。

同様に、カルマヨーガだけでは自由を得れず

あなたは知識を得なければなりません。

知識は、カルマヨーガとサンニャーサ両方に共通して必要です。

知識が自由にします。

その為、ヨーガで準備された考えを必要とします。

サンニャーシーは、サマーディの最終的な段階まで

アシュターンガ・ヨーガに従うかもしれませんが

これは、知識を得る為のアンタッカラナを清らかにする為

成されなければならない行いですから

カルマヨーガの中に入ります。

考えのムラの無さを得る為のテクニックは

サンニャーシーも使うかもしれません。

手段とゴールは1つです。

この詩のヴャヴァサーヤという言葉は

自分が何を求め、何をすべきかについての

はっきりとした考え[ニシュチャヤ]を意味します。

唯一のゴール、モークシャ、それは知識[ニャーナ]です。

そのゴール、目的地が明確なだけでほぼ達成です。

それがまさに私が求めているもので

限られている、というセンスからの自由で

その自由は、ただ自分自身の核心で

私の外側にはあり得ないことを、理解することが

ゴールが明らかである事を意味しています。

既に自由であることを知らなければなりません。

もし、私が束縛されている人なら

決して自由になる事は出来ない

という事を理解しなければなりません。

既に自由なら、私はそれを知るべきです。

私が求めているものは、そういった自由で

それが在るということ

それはニャーナの形をしているのす。

100人の探求者達全員が、何を求めているのかが明らかで

知識の追求に専念するのなら、シュラッダーは皆に共通です。

考えを準備する事に関してだけ、違いがあり得ます。

一旦考えの準備が出来ると、それはあてもなく彷徨いません。

しかし、目的地が定かでなければ

曲がりくねった川の様に、考えはあらゆる所を彷徨います。

ヴャヴァサーヤートミカー・ブッディがないので

何が為されるべきかの優先順位に混乱します。

カルマヨーガであろうと、ニャーナヨーガであろうと

焦点は同じ知識で、知識は異なり得ません。

1+1=2です。

カルマヨーギーは、最初はそう考えていたかもしれませんが

安全や、喜びの為、より良い人になる為

そんな理由からカルマを行ったりしません。

カルマヨーギーはサンニャーシー同様ムムクシュで

モークシャのみに熱望する探求者です。

誰も彼もが何らかのゴールを視野に入れ、カルマを行いますが

ゴールは、多くの枝[バフシャーカハ]多くの枝があります。

それぞれの人が、自分自身の道を歩みます。

それらは終わりなく、数限りなく[アナンタ]。

お金を求めても、権力を求めても

その追及には終わりがありません。

喜びも同じです。

何を追求しようとも、追及に終わりが無い事を見るでしょう。

何を求めているかが、明らかでない人々は

とりとめのない考えを持ちます[バフシャーカハ ブッタヤハ]。

数多くのゴールが、多くの手段で成し遂げられるので

手段とゴール、どちらも数に限りが無いのです。

考えが明確でない時、優先順位が常に問題で

何もかもが同じように大切に見えます。

一方、知られるべき事が明らかな人は

エーカーブッディがあります。

ヨーガに関してもエーカーブッディです。

永遠とそうでないものの識別

[ニッテャ・アニッテャ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ]から

カルマヨーガは生まれるのですから。

私達がしなければならない事は

好き嫌い[ラーガ・ドヴェーシャ]を処理する事です。

これらが中和されなければなりません。

その為にカルマヨーガが必要です。

カルマヨーガせず、サンニャーシーになったり

1人で知識を追求しているとしても

ラーガ・ドヴェーシャは処理されなければなりません。

知識の探求そのものががラーガ・ドヴェーシャを

上手く処理する事を助けるかもしれません。

全てのラーガ・ドヴェーシャを処理してから

知識を探求するという事ではなく

あなたは知識を探求し、ラーガ・ドヴェーシャを取り扱います。

これがアルジュナのした事でした。