2019/03/02
व्यवसायात्मिका बुद्धिरेकेह कुरुनन्दन ।
vyavasāyātmikā buddhirekeha kurunandana |
बहुशाखा ह्यनन्ताश्च बुद्धयोऽव्यवसायिनाम् ॥२.४१॥
bahuśākhā hyanantāśca buddhayo'vyavasāyinām ||2.41||
クル一族の子孫よ!これ(モークシャ)に関し
1つのハッキリと確かめられた理解があります
見極める努力が不足している者の観念は
多くに枝分かれし、全く数えきれません[2-41]
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戦場でアルジュナはムムクシュになりました。
アルジュナはダルマの人生を生きてきましたが
それは完全なカルマヨーガではなく、彼は大望を抱いていました。
武器の為だけにシヴァ神と戦い
祝福の形、ミサイル欲しさにシヴァ神を崇拝しました。
それは全て個人的な栄光の為でした。
アルジュナは倫理的な人生、ダルマを生きながら
これらの個人的な栄光を道理にかなった方法で追求しました。
人は道理にかなった方法で、お金、権力、天国などを熱望出来ます。
単に道徳的な人生を生きる事がカルマヨーガではありません。
人は様々なカルマを行い、道徳的に生計を立てます。
健全な仕事をし、個人の倫理に従う事は
その人の生き方が適切である事を意味しますが
その様な人が、必ずしもムムクシュとは限りません。
真実と真実でないものを既に見極めた
[ニッテャ・アニッテャ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ]で人であるとは限りません。
ニッテャとは永遠であり、いつもあるものを意味し
アニッテャとは束の間の永遠でないものです。
「永遠を求めている」というのは知識であり
悟らせる為に十分な経験をしてきた後、やがて得るものです。
経験や、体験は来ては去るもので、そこで起こる事は
私は体験を漁り、永久に探し求める人になるだけ、と言う事が分かります。
ある体験を卒業し、新しい体験を求める
あるいは体験を繰り返す事を望むかのどちらかです。
体験はアニッテャで、あらゆるカルマの結果はいつもアニッテャです。
人生の経験に対する冷静さを発見した人がムムクシュと呼ばれ
サンニャーサの人生、あるいはカルマヨーガ
どちらかの人生を始める事が出来る人です。
このライフスタイルを始める人は、疑いのない[ニシュチャヤ]
本質[スヴァバーバ]の為に、唯一[エーカー]の考えを持つムムクシュです。
決心と、知ることへの明晰さがあります。
花が本物か、造花なのかを知りたい時
明晰さ[ニシュチャヤートミカー・ブッディ]がありますが
それは生花ではなく造花ですよと
誰かが言う時に起こるのが疑いです。
プラマーナである手や鼻を使い
触ったり、嗅いだりしして本物かどうかを確かめます。
それが、本物と分かったらニシュチャヤートミカー・ブッディを持ちます。
この例え話から、ニシュチャヤとは
決心ではなく、明晰さである事が理解出来ます。
その花が造花であるかどうかを知る事に
どんな決断や決心がありますか?
決断とは、何か全く異なることです。
何かを成し遂げる為に決断や決意をします。
ここでは、人生において成し遂げられるべきこと
それに関する明晰な知識が
ニシュチャヤ・アートミカー・ブッディによって意味されているものです。
どんなターゲットも、ラクシャと言い
ほのめかされた意味も、ラクシャと言われます。
ここで示されている様々な手段は、明らかにラクシャです。
善をもたらす為にカルマヨーガを選びません。
善をもたらすのは、知識[ニャーナ]である事を熟知し、カルマヨーガを選びます。
カルマヨーガの人生を生きながら、同時に知識を追求する
カルマヨーギーはゴールについての明晰さ[ニシュチャヤ]があります。
アーサナや、プラーナヤーマ、他の様々な鍛錬を行うかもしれませんし
多くの儀式もまた為されるかもしれませんが
たった1つの目的の為だけにそれらをします。
カルマ自体が、知識をもたらさないと知る
カルマヨーギーにとって、この統合、様々な修業や鍛錬の目的も明らかです。
あらゆるカルマも、低い価値であると見たり、無視されませんし
ゴールの為の手段として間違えられたりもしません。
ああらゆる事を試してみたけれども、何も全く役に立たなかった
と、カルマヨーギーは後に不満を言ったりはしません。
あらゆる試みが正しく為されたなら、それは何かしら役に立ちます。
誰かの助けとなることは、別の人の助けにならない
という事もまた事実です。
探求[ヴィチャーラ]が必要である知識[ニャーナ]の為に
すべき事をし、それが知識を作り出します。
知識の為に、する必要があることをするのです。
ヴィヴェーカがあるので、考えは唯一です[エーカー ブッディヒ バヴァティ]
と、ここでシャンカラは言います。
しかし、求めるゴール[ラクシャ]が明確でないなら
それは、確かな方向性のない、多くの追求に分散した考え[ブッディ]です。
ヴャヴァサーヤを持たない人々は
見極める力[ヴィヴェーカ・ブッディ]のない人です。
シャーストラの学びを通して、プラマーナから生まれる知識を
明らかに持たず、明晰さがなく、多くの枝葉[バフ・シャーカー]
つまり、数え切れない手段とゴールがあります。
そういった全てがブッディの中にあり
その人は、同時に多くの事をしたがり
結果的には、それらのうちの1つも適切にしません。
そして「時間が足りない」と言うのです。
体は1つしかないので「今はこの仕事をして、これは後にしよう。」
と言えるのは、唯一のブッディを持っている事を意味します。
色んな事をしたくて、どれを最初にしたいのかが明らかでない時
それは、始める事すら出来ません。
この知識、自由を、この人生で求めている事が明らかなら
全てが、結婚でさえもカルマヨーガになります。
実際結婚はヨーガです。
この知識の準備の為、2人はカルマヨーガの人生を共に生きるのです。