6/8の勉強会では、第2章47番目の詩を読み進めていきました。
कर्मणि 7/1 एव 0 अधिकारः 1/1 ते 6/1 मा 0 फलेषु 7/3 कदाचन 0 ।
मा 0 कर्मफलहेतुः 1/1 भूः II/1 मा 0 ते 6/1 सङ्गः 1/1 अस्तु III/1 अकर्मणि 7/1 ॥२.४७॥
あなたの選択(権利)は行為にだけです。決して行為の結果にはありません。
行為の結果の起因と考えないように。アカルマ(結果)にあなたの執着がないように。[2-47]
ここでアディカーラはという言葉は選択で、あなたが権利を持つ何かです。
選択は、あなたが果たすカルマ(行い)に関してだけで、行いの結果(パレーシュ)を、あなたが選べる時などありません(マーカダーチト)。
クリシュナが行いの結果はどんな選択も持ってはいないと言った時、
ちょっとしたアドバイスをアルジュナにに与えたのではなく、「水が100℃で沸騰する」という事実を述べる様に、それは事実を伝える発言で、教えです。
「あなたの選択は、行いに関してだけであって、結果にはありません。」
クリシュナが賞賛するカルマヨーガは、この章では2つの方法で定義されます。
1つ目の定義が、
「考えの偏りのなさがカルマヨーガと言われます(=サマットヴァム ヨーガハ ウッチャテー)2-48」
サマットヴァは偏りのなさを意味していて、考えの偏りのなさはカルマヨーガです。
私達の行うカルマは、本質は何であれ、全てラーガ(持ちたいもの、維持したいもの)・ドヴェーシャ(避けたいもの、取り除きたいもの)、一般的に願望と呼ばれるものを満たす為にあります。
誰でも好き嫌いがあり、それが個人を形作り、誰にでも共通です。
ラーガ・ドヴェーシャがあるからこそ様々な行いをし、あらゆるカルマは好ましい結果を生み出す為になされます。
人はカルマを成し遂げたいのではなく、結果を成し遂げる為にカルマをします。
そして、まるで、ある行いが、どんな結果を生み出すのかを理解しているかの様に勘違いします。
自分が「こうであろう」と思っていた事が、推し量れる事では無かった事を知ることがあります。
私達が何らかの行いの結果を分析するなら、いつも以下カテゴリーの1つに落ち着きます。
望む以上の結果、
望む以下の結果、
望む反対の結果、
まさに望んだ結果。
例えば
①バスに乗る為に道を横断し、バスに乗れた(望んだ結果)
②バスに乗る為に道を横断するが、バスが来ない(望む以下の結果)
③バスに乗る為に道を横断したら、友達に会い、友達の車で目的地に行けた(望む以上の結果)
④バスに乗る為に道を横断し、目が覚めた時は病院にいた(望む反対の結果)
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人は全知ではないのですから、こういった状況全てがあり得ます。
未来の為に準備されている状況は、いつでも驚きです。
なぜなら私達は、明日何が起こるのか、次に何が起こるのかを知らないのですから。
自分自身の次の考えが、どの様なものかさえも知りません。
それでも私達は未来について語ります。
これがジーヴァ、つまり個人の無力さです。
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この詩は、プージャースワミジがとても詳しく解説して下さっているので、まだまだ続きます。
私はこの詩と出会い、心にゆとりが持てるようになりました。
だから、多くの人に知って頂きたい内容です。
次回も引き続き47番目の詩を読みすすめましょう。
日程:7月6日(土)11:20~12:50
最後までありがとうございました。
千葉市中央区ヨガ教室ギーターヨーガ ヤムナー