7/6の勉強会では、引き続き第2章47番目の詩を読み進めていきました。
कर्मणि 7/1 एव 0 अधिकारः 1/1 ते 6/1 मा 0 फलेषु 7/3 कदाचन 0 ।
मा 0 कर्मफलहेतुः 1/1 भूः II/1 मा 0 ते 6/1 सङ्गः 1/1 अस्तु III/1 अकर्मणि 7/1 ॥२.४७॥
あなたの選択(権利)は行為にだけです。決して行為の結果にはありません。
行為の結果の起因と考えないように。アカルマ(結果)にあなたの執着がないように。[2-47]
神(イーシュワラ)は、世界を創るのに何日も必要としません。
神(イーシュワラ)が全知全能であれば、必要な事の全ては1つの考え(サンカルパ)だけです。
全知というものがある時、何もなされる必要がなく、その考えはパーフェクト!
建築家の様に、初日にこれをして、2日目、3日目と、創ったのではありません。
個人の私でさえ、夢の中や、イマジネーションで世界を思えば世界が広がります。
山を思えば山がそびえ立ちます!
山の上にライオンを思えばライオンがそこに居ます!
アフリカのジャングルを思えば、それは全てそこにあります!
何かをする必要がありませんし、何処かに行かねばならない事もなく、それらは全てそこにありますし、私がそれを創造しました。
イーシュワラは真実のサンカルパを持つ人です。
考えがそこにある時、全てのものがそこにあります。これが全能です。
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しかし私個人は、力も知識も限られていますから、病気や、木から落ちるという様なある種の状況を避ける事が出来ません。
物理学者は木から落ちる理由について、毎秒毎秒32フィート加速の引力の法則など全ての論理を知り、私は引力の法則など全く理解してはいないかもしれません。
しかし私が偉大な物理学者であろうが、無知であるかは問題ではなく、知られている事と言えば、人は落ちるということです!
誰も落ちる事を避ける事が出来ません。
力と知識に関して、限られている事が個人と言うものなのです。
そうであるなら「人の選択は行いだけにある(カルマニ エーヴァ アディカーラハ テー)」というクリシュナの発言はとても重要です。
人として私は、選択(アディカーラハ)がありますが、結果には選択はないのです。
全知ではないので、どのカルマがその結果を作り出すのかを知りませんし、カルマの運び方を知りません。
何か望む結果を得る為に、私は正しい時に正しい場所にいなければなりませんが、どれが正しい時と場所か知らず、ただそうしようと試み続けるだけです。
私たちはそれを『運』があるとか、ないという言葉で表したりしますが、ヴェーダではそれを『運』とは言わず、以前のカルマであると表現します。
原因と結果の因果関係が理解されるなら、『運』と言うものはなく、それは単純に過去のカルマに置き換えられます。
正しい時に、正しい場所にいるというのはカルマで、間違った場所にいるのもカルマで、私には知り得ません。
私はただ自由意志、つまり選択によってのみ進むことが出来ます。
結果は、未知の要因に依存しているので個人が予測することは不可能です。
1つの特別な行いから起こるであろうと望んでいる事が、望んでいる通りに起こるかどうかは当て推量でしかないのです。
私は行いの結果を取り仕切る完璧な選択がないのですから、その限界を認めるのです。
限りがあると言う事は、無力だと言う事ではありません。
無力というのは、限界を受け入れない時だけ感じられます。
限界を知る事は客観的であることです。
自分の考えから、無力という観念を払いのけ、個人としての限界を認めます。
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どの様な結果も2つの方法で反応され得ます。
サマットヴァを持ち、感情に振り回されない平静さや公平さによる反応。
あるいは自分が望んだものを手に入れて得意になったり、そうならなかった事から自滅的になったりするヨーヨーの様な反応です。
このヨーヨー反応は、自分自身が全ての行いの結果の作者であると思う事にあります。
必要な事の全てと言えば、宇宙創造、宇宙の成り立ちとはこういうものであると客観的に受け入れる事です。
全ての人間が同じ種類の限界を持ちます。
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この詩は、プージャースワミジがとても詳しく解説して下さっているので、もう少し続きます。
私はこの詩と出会い、心にゆとりが持てるようになりました。
だから、多くの人に知って頂きたい内容です。
次回も引き続き47番目の詩を読みすすめます。
日程:7月20日(土)11:20~12:50
最後までありがとうございました。
千葉市中央区ヨガ教室ギーターヨーガ ヤムナー