千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章47番目の詩

2019/08/31

कर्मण्येवाधिकारस्ते मा फलेषु कदाचन ।

karmaṇyevādhikāraste mā phaleṣu kadācana |

मा कर्मफलहेतुर्भूर्मा ते सङ्गोऽस्त्वकर्मणि ॥२.४७॥

mā karmaphalaheturbhūrmā te saṅgo'stvakarmaṇi ||2.47||

あなたの選択(権利)は行為にだけ  決して行為の結果にはありません

行為の結果の起因と考えないように。
アカルマ(結果)にあなたの執着がないように[2-47]

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イーシュワラの定義は 「全知[サルヴァッニャ]」 「全能[サルヴァシャクティマーン]」「行いの実りの数々を与える人[カルマパラダーター]」 です。

これらの定義は、神が全ての生き物達を創ったと言う時に起こる問題を取り除きます。

しかし、なぜ神は、ある人を目が見えない様に作り、他の人は足を不自由に作ったのか ?と、当然のことながら疑問が起こります。

これら全ての答えは、神は創造主であるだけではなく 神は創造された世界でもあると言う事で解消されます。

個人[ジーヴァ]と神[パラメーシュワラ]は 違ったものではないのです。

ジーヴァは、ただ無知ゆえです。

そして無知は、始まりがなく、ジーヴァは始まりがありません。

世界に生まれてくるそれぞれの個体で、そのカルマ・パラに適合した肉体を持ちます。

カルマ・パラ・ダーターとして 定義されるイーシュワラは、非難するものとなりません。

還って来るものについて誰も責任はありません。

私達は行いを演じる為の能力、自由意志を持ち、何であれ望むことをする事が出来ます。

しかし、結果はいつもイーシュワラである法則に処理されます。

こういった理解が何故必要なのか? ギーターによって定義されている人間の心理にもう少し踏み込む必要があります。

私達の全ての行為は、好き[ラーガ]と 嫌い[ドヴェーシャ]に他ならず、問題もまたラーガ・ドヴェーシャに他なりません。

もしラーガ・ドヴェーシャが無いなら、熟睡の時の様に問題はないのです。

文化的、民族的、そしてそれ以外のものに基づく 人の振る舞い、行動、反応、偏見の数々は、全て人の好き嫌いにコントロールされています。

例えばガネーシャ神に祈る時、 ガネーシャ好きな甘いお菓子、モーダカを捧げますが、これも私達の好みに基づいています。

私達自身のラーガ・ドヴェーシャをバガヴァーンにも負わせます。

ガネーシャはこれが好きで、 シヴァはあれが好きでと私達が言い、統括神を人として扱うのです。

私達は好みなしに誰かを扱う事は出来ませんが、好みは「束縛が無いものであるべき」と言うのがアイデアです。