9/7の勉強会も、引き続き第2章47番目の詩を読み進めていきました。
कर्मण्येवाधिकारस्ते मा फलेषु कदाचन ।
मा कर्मफलहेतुर्भूर्मा ते सङ्गोऽस्त्वकर्मणि ॥२.४७॥
あなたの選択(権利)は行為にだけです。
決して行為の結果にはありません。
行為の結果の起因と考えないように。
アカルマ(結果)にあなたの執着がないように。[2-47]
カルマ・パラ・ダーターとしてのイーシュワラの理解が
毎日の生活の中で、私達にイーシュワラを認識させるものです。
人は転んで怪我したり
怪我1つしない事もあり
病気が結末の場合があったり
決して帰って来ない事もあります
これら全てがあり得えます。
1人のバクタ(帰依者)として
私達はイーシュワラが途切れる事なく
働いている事を見ます。
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全ての結果が、イーシュワラから来きますから
それをプラサーダとして受け取ります。
私達が、神に甘いお菓子を捧げる時
その甘いお菓子は私達に還ってきます。
祭壇から与えられます。
その還ってきた甘いお菓子が、プラサーダと呼ばれます。
ダイエットをしている人は、甘いお菓子を拒むかもしれませんが
それがティルパティ ヴェンカデーシュワラ(南インドの有名な寺院)からもらった
甘いお菓子だと知ったら、その人は拒みません。
イーシュワラからの「御下がり」であると知るなら
甘いお菓子がプラサーダになります。
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カルマ・パラをプラサーダ(恩恵、御下がり)に変えるのは
それがイーシュワラから来るものだという
純粋に私達の理解です。
ひとたび、全てがプラサーダであるなら
実際、何も不平がありません。
私達はそこから何かを学ぶだけです。
どの様なカルマ・パラ(行いの結果)が来ても
それに対する受け取り方は同じです。
これがクリシュナがカルマ・パラの原因ではない様にと
アルジュナに言っている事なのです。
カルマ・パラ・ヘートゥ(行いの結果の原因)は
アルジュナではなくイーシュワラです。
アルジュナは行いを作る原因ですが
その結果を作る原因ではありません。
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更にクリシュナは
「行いではないものに、執着がありませんように。
アカルマニ サンガハ マー アストゥ。」
と言いました。
行いそのものは問題はなく
行いの結果への私達の反応があり
そこに問題があります。
行いではないものとは、行いの恐れを意味しています。
行い自体の恐れではなく
私達が望む結果が来ないという恐れです。
私達は行いを始める前でさえ失敗する事を予想します。
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クリシュナは「カルマそのものは、束縛していない」
とアルジュナに言いました。
カルマ・パラが束縛するのでもありません。
カルマを、まるで束縛であるかの様にするのは
カルマ・パラに対する反応なのです。
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「行いに愛がありますように」
「プラサーダとして結果が受け取られますように」
次回の勉強会は9月21日(土)11:20~12:50です。
第48番目、カルマヨーガ定義の詩に進みます。
最後までありがとうございました。
千葉市中央区ヨガ教室「ギーターヨーガ」ヤムナー