2019/09/21
योगस्थः कुरु कर्माणि सङ्गं त्यक्त्वा धनञ्जय ।
yogasthaḥ kuru karmāṇi saṅgaṃ tyaktvā dhanañjaya |
सिद्ध्यसिद्ध्योः समो भूत्वा समत्वं योग उच्यते ॥२.४८॥
siddhyasiddhyoḥ samo bhūtvā samatvaṃ yoga ucyate ||2.48||
ダナンジャヤよ 執着を手放して
成功にも失敗にも同じに留まり
ヨーガに留まり行いをしなさい
考えに偏見のない事からの平静な生き方が
ヨーガと呼ばれます[2-48]
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好ましい事[ラーガ]、好ましくない事[ドヴェーシャ]は
執着[サンガ]の原因です。
「これが、私に起こるべきだ」
「これは、私に起こるべきではない」と。
しかし、もし私達が
偏見なし[サマットヴァ]に物事を見る時
ラーガ・ドヴェーシャは中和されます。
ラーガ・ドヴェーシャは
どんな種類の反応をも
作り出す事の出来ない様に溶かされます。
ラーガ・ドヴェーシャは
様々なカルマを通し、それ自身を現します。
そして、その人の
サマットヴァの考えのあり方に合わせて
それは中和されます。
これがカルマ・ヨーガによって
意味される事です。
ヨーガに留まる[スタ]とは
このサマットヴァの考えのあり方を
楽しむと言う意味です。
成功[シッディ]、失敗[アシッディ]のどちらも
偏見なく受け取れることがヨーガと呼ばれます。
これが、私達をヨーギーにするものです。
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ヴェーダで申し付けられている儀式[ヴァイディカ・カルマ]
①カーミャ・カルマ
誰かに望まれた何らかの結果を生み出す為の儀式
②ニッテャ・カルマ
毎日の儀式
③ナイミッテャ・カルマ
特別な日時に行われる儀式
④プラーヤシュチッタ・カルマ
間違った行いを正す為の儀式
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ラーマの父ダシャラタは
王様として、子供を望み
プットラカーメシュティという
儀式で4人の子供を得ました。
この種類の儀式[カルマ]は
カーミャ・カルマの例えです。
カーミャ・カルマはヴェーダによって
仕組まれて解き明かされ
何らかのカルマが
ある結果を生み出すと言います。
同様に「天国を得る」
ヴェーダの中に述べられた
多くの儀式があります。
これも全てカーミャ・カルマです。
しかしそれは、カーミャ・カルマが
アンタッカラナ・シュッディの為ではありません。
特別な儀式が、特別な結果の為に述べられましたが
子供に対する望みの様に
それらは単に、望まれるもの[カーミャ]の為です。
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”ニッテャ・カルマ”と、”ナイミッテャ・カルマ”
これら2つは一緒に考えられます。
学生[ブランマチャーリー]は
2種類のカルマをします。
①毎日3回為されるサンデャ・ヴァンダナという祈り。
②サミッダーダーナと呼ばれる火を使う儀式。
朝に1度行われ、その中に
「私が輝きであります様に。
私が完全に自分自身をコントロールする人であります様に。」
という祈りがあります。
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家庭人[グラハスタ]も
サンデャ・ヴァンダナは続きます。
ところがサミッダーダーナは
アッグニホートラに置き換えられ
アッグニホートラは
朝と夜の2回行わなけます。
結婚の日に灯された火は
その人がサンニャーサの生き方を選ぶか
あるいは死ぬ時まで
火が消える事が許されません。
もし結婚した人が
サンニャーサの前に死んだら、
その同じ火が、その体を火葬する為に使われます。
この様に家庭を持つ人の人生は
献身的で宗教的な人生です。
ニッテャ・カルマは、しくじることなく
毎日行わなければなりません。
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隠居生活の準備[ヴァーナプラスタ・アーシュラマ]では
サンデャー・ヴァンダナ、アッグニホートラと
その他カルマが付け加えられます。
それは瞑想の性質を持ちます。
これらのカルマをまぬがれる方法はありません。
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人生のゴールを果たす為の生き方[サンニャーサ]で
これらの儀式と誓い[ディークシャ]は手放され
それらのカルマも手放されます。
儀式で得た身の回り品も手放され
ガーヤットリーマントラも
手放すものに含まれます。
オームという音[オームカーラ]と
必要最低限の物だけを持ち
ヴェーダの最後の部分[ヴェーダーンタ]を
勉強と熟考に専念する生き方に入ります。
サンンニャーサーまでは、
ヴェーダによって申し付けられた
様々な儀式をしなければなりません。