千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章59番目の詩

विषयाः 1/3 विनिवर्तन्ते III/3 निराहारस्य 6/1 देहिनः 6/1 ।

रसवर्जम् 0 रसः 1/1 अपि 0 अस्य 6/1 परम् 2/1 दृष्ट्वा 0 निवर्तते III/1 ॥२.५९॥

肉体を装い、五感を養わない人にとっては、五感は欲望を残し自分自身に戻ります

ブランマンを知るならば、その欲求さえ消えてしまいます[2-59]

好みの空想に進まなくても、

好みの感覚[ラサ]はそこに残ります。

意志の力で、無理やり

感覚器官を対象物から引き下げるなら

それは引き下げるではなく、押さえつける練習です。

全てのものが内側に抑え込まれるので

遅かれ早かれ爆発し

再び感覚器官に乗っ取られます。

瞑想に価値を見出している人

内面を満たすべく、感覚器官を引き下げる練習をする人も

感覚的な喜びの価値を持ち続けます。

では、この好みの感覚[ラサ]に対する

主観的価値は、消え去りますか?

「消え去りません」

主観的価値は、感情的な価値です。

感情は人生の一部。

それは、無視できませんし

無視する必要もありません。

感情は、尊重される必要があり

完全に感情に圧倒され得るので

それにどう取り組むかを知るべきです。

主観的価値である感情的な価値は

客観的価値である知的な価値とは違います。

お金が私を安全にしないと分かっていたとしても

お金に対する感情的な価値は消えません。

もし、お金に感情的な価値がないにしても

生きる為にお金は必要という、知的な価値があります。

お金に価値がない、というのは正しくありません。

感情的な価値で言うなら

昔から、お金で成功を計る風習が

その人の中にあるのであれば

その人は、それを成し得ていない

という感覚が残ります。

無視する事の出来ない

主観的で、感情的な価値なのです。

その価値を抑え、蓋をしてしまうのは違います。

感覚器官を引き下げる修練に専念する人は

何がゴールを識別した人[ヴィヴェーキー]でも

未だ混乱する人[ムールカ アピ]でもあり得ます。

感覚の対象物から引き下げられた感覚器官は

自分自身に戻ってきますが

その対象物の体験が残ります。

[ラサ・ヴァルジャム ヴィニヴァルタンテー]

主観的で、感情的な価値は、未だそこにあるのです。

勘違いで、単に修行[タパス]をする

人を駆り立てる知的価値もまたそこにあります。

未だ混乱する人[ムールカ アピ]は

主観的価値と知的価値の両方を持ち得ます。

何がゴールを識別した人[ヴィヴェーキー]は

知的価値ではなく、ただ主観的価値を持ちます。

クリシュナはアルジュナに

どの様に主観的価値を扱うかを述べます。

一般的に、ラサとは感覚のこと

通常は好み[ラーガ]という意味に使います。

あなたが、山に住み自制[ニラハーラ]したとします。

そこは、新聞、ラジオ、テレビもない

誰も居ないし、誰も来ません。

感覚の対象物が、自分の周囲に無いにしても

好みの感覚は残っています。

あなたは次第に、他の人達が何をしているのか?

それを知りたくなっている自分に気付きます。

フロイドも「抑圧を放置することはよくないと言ってたな」とか

時々は、町に戻った方がいいだろうと考えたり

更には誰かに「今お金を稼いでおかないと後悔するよ」

などと言われると、

なるほど、それもそうかもしれない!

こんな事を続けても"私は無力だ"

という事実だけかしか残らないかも・・・

と、誰かの意見に同意しはじめます。

それは、あなたの内側に、お金を好む感覚があるからです。

実際、そこに留まる事が出来るのも

あなたが、お金を持っているからです。

お酒は、好みの感覚が残るもう1つの例えです。

お酒に溺れる人は

いつでもお酒をやめる事が出来ると言い

健康に良いと、お酒のメリットを促したりしますが

お酒は、普通の物ではありません。

魔物[ラークシャサ]より力があります。

いつでもやめられる、と言うかもしれませんが

実際にはやめられないのです。

それは、あなたが話しているのではなく

お酒が話しています。

最初あなたは、自分でお酒の瓶を手にとっていましたが

今はお酒の瓶が、あなたを手にとります。

何処に行き、何をするべきか、という全ての決定は

お酒の瓶によって為され、その人によっては為されてはいません。

その人は、その自由を、とっくに失っているのです。

お酒ををやめる唯一の方法は

お酒に対して自分は無力だ

という事実を受け入れることです。

認めることだけが、はじまりで他に方法はありません。

お酒には適わない、と認めるなら

この自由を取り戻すチャンスがあります。

もちろん、真剣にお酒をやめると決めるならですが。

これ以上飲まないと、自分に言い聞かせる必要があります。

しかし、お酒の匂いや、それを好きだった感覚は

頭の中にまだありますから、仲間の援助も必要です。

助けがないなら、再び飲み始め

完全に我を失い、チャンスを失くしてしまいます。

しかし、あなたがもっと没頭させられるもの

もっと刺激されるもの、もっと深くて、美しく

役に立つもの、より力のあるものがあるなら

それは無くなってしまいます。

これがアルコール中毒者に、祈りが必要な理由です。

祈り無しに問題を取り除く事は、簡単ではありません。

アルコール中毒者から、落ち着いた人に代わった人は

祈りをマスターし、もっと力のあるものを見つけるので

その人のお酒を好む感覚は無くなり

その人は聖人になる事が出来るのです。

自分自身が知られた時

考えの中に残る価値は消滅するとクリシュナは述べます。

[ラソーピ パラムドゥルシュトヴァー ニヴァルタテー]

ヴェーダーンタ・プラマーナーによって

自分自身の知識を探求する人が

今、探求している事を完全に理解し

感覚器官を引き下げるなら

そこには抑圧がありません。

自分自身の知識を探求せず

感覚器官を引き下げる訓練をするなら

引き下げる事は、多くの抑圧をもたらします。

知らなければならない事は

ブランマンと私自身の2つの間には違いがないということ。

知られる人と、知られるものは同じだということ。

この知識に気付くなら

ラサ[好みの感覚]は消滅します[ニヴァルタテー]。

それはニルヴィージャ、種がないので

芽が出てくることはありません。

空想に連れ去られることがありません。

しかし、世界観がはっきりしていない時

ラサは残ったままです。

はっきりとした世界観である知識[サムミャク・ダルシャナ]が

成し遂げられるべきことです。

この宇宙観を得る為に、何度も何度も努力を重ねます。

この宇宙観への努力を諦めたら

間違った宇宙観はなくなったりしません。

多くの人は、人生で全てを整えた後

この宇宙観の為に努力しようと、計画を立ますが

それでは、上手くいきません。

この宇宙観なしに「全てが整う」ことはあり得ないのです。

自分自身を統括する事[ヨーガ]と、自分自身の知識[ニャーナ]

この2つの側面を探求します。

人は、自分自身が安全であることを知った時だけ

わたしが、ありとあらゆるものである事を

その真実を知った時にだけ

好みの感覚はその威力を失います。

その時世界は、その人を操ることはできません。