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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章03番目の詩④

2020/12/21

श्रीभगवान् उवाच ।

śrībhagavān 1/1 uvāca III/1 |

लोकेऽस्मिन् द्विविधा निष्ठा पुरा प्रोक्ता मयाऽनघ ।

loke7/1asmin 7/1 dvividhā1/1 niṣṭhā1/1 purā0 proktā1/1 mayā3/1anagha8/1|

ज्ञानयोगेन साङ्ख्यानां कर्मयोगेन योगिनाम् ॥३.३॥

jñānayogena3/1sāṅkhyānāṃ6/3karmayogena3/1yoginām6/3 ||3.3||

シュリー バガヴァーンが言いました。

罪のない者よ。この世の2つ専心するライフスタイルは最初に私によって語られましたが

サンニャーシーの為のニャーナヨーガと、ヨーギーの為のカルマ・ヨーガです[3-3]

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行い[カルマ]は、限られた結果を伴いそれは、明らかに束縛ですが

アンタハ・カラナ・シュッディの為

ラーガ・ドヴェーシャの中和の為

イーシュワラから恵みを得る為

つまり祈りや、儀式、役割を果たす目的の行い[カルマ]は、モークシャの為の手段[ヨーガ]となります。

カルマ・ヨーギーには、ラーガ・ドヴェーシャを中和する手段、世界、場所がありサンニャーシーにはありません。

朝から、晩まで、知識の追求をする生活を送り、それには思慮深い考えが必要です。

ラーガ・ドヴェーシャからのプレッシャーがあるなら、座って熟考など出来ません。

サンニャーシーの生活を求めたとしても2、3日も経てば、苛立ちの原因となります。

ですからサンニャーサは、最低限ラーガ・ドヴェーシャを上手く扱うことが出来る人の為だけにあります。

そうでなければ、みじめなサンニャーシーです。

シュレーヤスの為だけに2つのニシュターがあります。

アルジュナは、どちらがよいのか、クリシュナに教えを求めました。

クリシュナは、サンニャーシーorカルマ・ヨーギー、どちらかになることが出来ると答えました。

カルマ・ヨーガの生活をする人も、サンニャーサの生活をする人も、モークシャを得ることが出来るのです。

唯一の違いは、サンニャーシーには”知識”のみがあり一方、カルマ・ヨーギーには”知識”と”行い”があるのです。

ここに多くの混乱があるので、この違いを十分に理解するのです。

知識の追求をせず、見極め無く、モークシャが目的でないならカルマ・ヨーギーではありません。

それは、行いをする人[カルミー、カルマタ]です。

モークシャがはっきりとしたゴールである時、カルマがヨーガになります。

考えをきれいにする[アンタハ・カラナ・シュッディ]を得る為、特別な態度で行いがされるからです。

全ての行いを手放す[サルヴァ・カルマ・サンニャーサ]が、目的そのものです。

全ての行いを手放すとは”行いをしない”ことではなく「わたしは行い手です」という観念を手放すことです。

イーシャーヴァースョーパニシャドの最初にイーシュワラ自らによって明らかにされています。

ニャーナ・ヨーガの詩

ईशा वास्यमिदं सर्वं यत्किं च जगत्यां जगत् ।

तेन त्यक्तेन भुञ्जीथा मा गृधः कस्य स्विद्धनम् ॥ १ ॥

この移り行く世界で、全てがパラメーシュワラとして見られますように。

全てのものは神であるのにあなたのものであるものは何がありますか?

また、あなたのものではないものがありますか?

隠遁生活をし、自分自身の知識のみを追い求めなさい。

カルマ・ヨーガの詩

कुर्वन्नेवेह कर्माणि जिजीविषेच्छतं समाः ।

एवं त्वयि नान्यथेतोऽस्ति न कर्म लिप्यते नरे ॥ २ ॥

たとえ、100年生きたいと望むとしても適切な 心構えで行いをして生きなさい。

これが、あなたたちにとって、最善のことです。

もし、行いが正しくなされるのなら、それは、あなたに何の影響も与えません。

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モークシャが、人間がこの人生で辿り着くべきゴールで、今ここでサムサーラが乗り越えられます。

人として生まれてきたということは、知性[ブッディ]を持ち、識別[ヴィヴェーカ]が起こり得るので、それで既に大成功です。

経験が教えてくれるというのは事実ですが、見極めを育てる為、75年もうろつき回り、時間を無駄に過ごす必要はありません。

ヴィヴェーカを持つなら、シュレーヤスのみが、唯一のゴールになるのです。

その為、カルマ・ヨーギーorサンニャーシー、2つののどちらかになります。

サンニャーシーになり、知識を追求することも出来るし、カルマ・ヨーギーになり、カルマと共に知識を追求することも出来ます。

知識がモークシャです。

知識[ニャーナ]か、行い[カルマ]ではなく、サンニャーサかカルマ・ヨーガのどちらかを選ぶのです。

アルジュナの場合、選択が与えられるなら、行いをすることは大変で、問題がある上、流血の惨事でさえあるので、サンニャーサがより良い選択に思えました。

農家を営むカルマ・ヨーギーも牛の乳搾りをし、草を食べさせ、体を洗い、子供の世話、様々なことをせねばなりません。

それならサンニャーサを選ぶことの方が良い!!

アルジュナは本当にそう思いました。

しかし、サンニャーサは見かけほど簡単なものではないのです。

勉強せず、1日中ただ食べてぼんやりと暮らすかもしれません。

実際、そんな簡単なものではないのです。

カルマ・ヨーガは、サンニャーサの為の道を整えます。

知識を得たいという願望への道をも整え、それゆえヴィヴィディシャー・サンニャーサへの道も整えます。

詰まる所、サンニャーサは全てを手放すことなのです。

特にアルジュナは、12年間の森で暮らした経験があり、全てを放棄することは、難しくないと思っていました。

しかしその12年間アルジュナは、ドゥルヨーダナのこと、王国のこと、アダルマのこと、そういった事を考えてきたのです。

ドゥルヨーダナを12年間もの間、瞑想し続けたのです。

アルジュナは、長い間、深い傷を抱いてきました。

ですから、そんなに簡単にサンニャーサを選ぶことはできません。

次の詩では、モークシャを得ること、行いのないことの本当の意味をクリシュナがアルジュナに教え始めます。