
न कर्मणामनारम्भान्नैष्कर्म्यं पुरुषोऽश्नुते ।
na karmaṇām anārambhāt naiṣkarmyam puruṣaḥ aśnute|
न च सन्न्यसनादेव सिद्धिं समधिगच्छति ॥३.४॥
na ca sannyasanāt eva siddhiṃ samadhigacchati ||3.4||
行いをしないことによって、行いの無い事(行いからの自由)を得るのではありません。単なる隠遁生活、サンニャーサだからといって、成功(自由)を達成するのでもありません。
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ヴェーダが教える究極のゴールであるシュレーヤスは、私たちが今ここで直面しているサムサーラという束縛からの自由を意味します。
この自由を手に入れる唯一の手段は「知識」ですが、その知識を得るためには、個々の考えの準備状態に応じた2つニシュターが用意されています。
1つは、すべての社会的義務や人間関係から物理的に身を引いて知識の追求のみに没頭するニャーナ・ヨーガであり、もうひとつは、世俗の義務を果たしながらその行いを通じて、考えを浄化していくカルマ・ヨーガです。
サンニャーサという生き方は、一見すると静かで容易な道に見えるかもしれませんが、実際には極めて高度な精神性が要求されます。
なぜなら、隠退という環境は、ラーガ・ドヴェーシャを中和する機会を奪ってしまうため、もし心にこれらの衝動が強く残っていれば、隠退生活そのものが耐え難いいらだちの源となってしまうからです。
これに対し、カルマ・ヨーガは日常生活で、行いの結果を神からのプラサーダとして受け取る態度を養うことで、ラーガ・ドヴェーシャを中和する機会を与えてくれます。
このように、カルマ・ヨーガを通じてアンタッカラナを清めることが、真のサンニャーサへの道を整える不可欠な準備となるのです。
最終的に目指されるべきは、単なる形としての隠退ではなく、知識による完全な放棄[sarva-karma-sannyāsa]です。
これは、知識によって「私は本来、何も行わず、誰にも行わせない不変の存在である」という真実を認識し、行い手観念そのものを手放した状態を指します。
ニャーサとは、隠退生活を意味し、サンニャーサとは、完全な、完璧な隠退生活です。
この知識そのものがニャーサの本質であり[sannyāsa]、まさにモークシャそのものです。
◎カルマヨーガの必要性
モークシャという究極の自由を求める人[mumukṣu]にとって、一切の義務を手放して知識の追求に没頭する生き方[vividiṣā-sannyāsa]という選択肢は、常に開かれています。
しかし、単に行いを手放して知識を学ぼうとするだけでは、真の意味でサンニャーサの生活を送ることはできません。
なぜなら、知識の追求を妨げるラーガ・ドヴェーシャが処理されないまま残っているからです。
もし未解決のラーガとドヴェーシャがあるならば、知識に専念しているつもりでも、実際には他の関心事に心が奪われ、その追求が人生の優先順位のトップにくることはありません。
準備の整っていない考えのまま知識を追い求めても、それは実を結ばない無益なものとなってしまいます。
サンニャーサとは、単なるライフスタイルを指すのではなく、カルマ・ヨーガの実践を通じてのみ獲得できる「整理整頓された考えの状態」を意味しているのです。
したがって、モークシャを求めているからといって、「行い」に価値がないと結論付けるのは誤りです。
カルマ・ヨーガこそが、日常生活の中でラーガ・ドヴェーシャを中和する唯一の機会を提供してくれます。
この中和がある程度進み、考えの準備が整って初めて、カルマ・サンニャーサの機会が訪れます。
ラーガ・ドヴェーシャを扱うプロセスを飛び越えてサンニャーサの生活に入ったとしても、それは本質的な意味をなさないのです。
◎知識だけが否定する
クリシュナはこの詩を通じて、単に静かに座るだけでは、ナイシュカルミャ、すなわちサルヴァ・カルマ・サンニャーサには到達できないと言います。
あくまでそれは、「知識」でしかないからです。
行い手観念を手放さない限り、本当の意味で行いから自由になることはありません。
しかし、この「行い手観念」を手放すことは、単なる決意や意志の力では不可能です。
もし「今日から行い手であることを辞めよう」と決心しても、そう決めている自分自身が、まさに「決めるという行い」をしている当の本人(行い手)だからです。
行い手を消そうとする行為そのものが新たなカルマとなり、エゴを強化する矛盾に陥ってしまいます。
したがって、意志の力で行い手観念を消し去ることは成立しません。
自分が自分だと思い込んでいる「行い手」の正体を、正しい知識によって見極める必要があります。
それこそが、カルマ・ヨーガを通じて準備された考えで受け取るべき知識なのです。
◎行い手の観念を手放す
「自分は行い手ではない、アートマーであり、ブランマンである」という知識が確立されたとき、はじめて「行い手である」という誤った観念は解消します。
この無知を打破できるのは唯一「知識」だけで、それ以外のいかなる方法も、行い手観念を取り除くことはできません。
例えば、「自分を神に明け渡す」という行為を、知識とは別の独立した救済手段だと考えるのも違います。
なぜなら、「自分を明け渡そう」とする主体が残る限り、そこには依然として「明け渡しという行いをしている自分」という行い手の観念があり続けます。
知識によって、理解されない限り、真の意味での明け渡しや、行い手からの自由は達成されません。
マハーバーラタにも似たような詩があります。
त्यज धर्ममधर्म च उभे सत्यानृते त्यज। उभे सत्यानृते त्यक्त्वा येन त्यजसि तत्त्यज ।। ( 12-329-40)
ダルマとアダルマの両方を手放しなさい。正しいと間違いという両方の観念を手放しなさい。正しいや間違いという観念両方を手放して、それによってあなたが手放すという、それを手放しなさい。
探求の初期段階では、アダルマをなるべく避け、ダルマを選ぶことが求められます。
やがてその「ダルマ・アダルマ」という概念さえも手放さなければなりません。
なぜなら、プンニャ・パーパもカルマですから、サムサーラへと繋ぎ止める原因になるからです。
真のサンニャーサとは、このプンニャ・パーパの両方を超越し、すべての義務や権利から自由になることを意味します。
注意すべきことは、単に「私はすべてを手放した、私は何にも動かされない」という思い込みだけでは不十分だということです。
そう確信している主体が、エゴであるならば、それは「放棄したという新たなエゴ」を握りしめているに過ぎません。
アハンカーラそのものである本人が、自らの意志でアハンカーラを捨てることは不可能です。
それが可能になる唯一の道は、「そもそもアハンカーラはミッテャーで、アートマーは最初から行い手ではない」という知識が明かされることです。
この知識を得た人は、肉体を通じて様々な活動をしていても、「私は行い手ではない」という真実に落ち着きます。
これが「ナイシュカルミャ」であり、「サルヴァ・カルマ・サンニャーサ」です。
◎行いが無いとは、行いを手放すことではない
モークシャである「ナイシュカルミャ」という言葉は、文字通りには「行いがない状態」を意味するため、私たちは「何もしないこと」でその状態に到達できると誤解しがちです。
アルジュナもまた、戦いという行いを避けて何もしないことが、自由への近道であると考えました。
しかし、クリシュナはここで、単にカルマしないことでは、決してナイシュカルミャには到達できないとはっきりと告げています。
もし「何もしないこと」がモークシャならば、考えと考えの間の時間や、深い眠りの中で、誰もがすでにモークシャです。
また、活動を止めたとしても、「座っていること」や「横になっていること」、さらには「何もしないでいようと努めること」自体がひとつの行いとなってしまいます。
つまり、生きている限り、私たちは「行いの不在」を実現することは不可能なのです。
したがって、ナイシュカルミャは、行いをゼロにすることではなく、「私は行い手ではない」という知識に留まることを指します。
行いをしないことで、この状態を得ようとする試みは、かえって「行い」という概念に縛られているのです。
ナイシュカルミャは、行いの有無によってかき乱されることのない、自己の知識によってのみもたらされます。
◎サンニャーサはモークシャを保証しない
ヴェーダの規定に従い、すべての社会的責任や義務を免除されるサンニャーシーの誓いを立てれば、それだけで自由になれると考える人がいるかもしれません。
しかし、クリシュナは、単にサンニャーサという生活スタイルを選んだだけでモークシャやナイシュカルミャを得ることはできないとはっきりと述べています。
シャンカラも解説する通り、真のサンニャーサ・ニシュターに至るには、その前段階としてカルマ・ヨーガ・ニシュターが不可欠です。
カルマ・ヨーガの実践を通じて考えが整い、自分自身と静かに向き合えるだけの思慮深さと、ある程度の充実感を得てはじめて、サンニャーサという生活スタイルが有効な道具となります。
この準備なしに形だけ隠退しても、それは単なる「義務の怠慢」であり、真のサンニャーサではありません。
「行いをしないこと」を物理的な意味で捉えてはなりません。
誓いによって形の上で行為を手放したとしても、最終的には自己の知識を得ない限り、行いの束縛から完全に自由になることは不可能です。
つまり、カルマ・ヨーガによる準備を経て、知識という手段によってのみ、サンニャーサはその真の目的を果たすことができるのです。
