【ギーター】第2章69番目の詩④
2021/02/06
या निशा सर्वभूतानां तस्यां जागर्ति संयमी ।
yā niśā sarvabhūtānāṃ tasyāṃ jāgarti saṃyamī |
यस्यां जाग्रति भूतानि सा निशा पश्यतो मुनेः ॥२.६९॥
yasyāṃ jāgrati bhūtāni sā niśā paśyato muneḥ ||2.69||
全ての生きものにとっての夜の中で
自分を熟知している賢者は目覚めています
生きものが目覚めているその中に
気づいている賢者にとっては夜です[2-69]
–
賢者以外の人は、分かれている事のみに目覚め
この分かれた見え方のみがリアルですが
賢者にとっては、如何なる分け隔ても夜です。
人々が愚痴をこぼすサムサーラを
賢者は少しも見ないのです。
「私は悲しい」と言う人がいますが
賢者はどんな悲しみも見ません。
「世界はあんまりだ」と言う人がいますが
賢者はそうだと見ないのです。
世界があんまりなのではありません。
あなたがあんまりなのでもありません。
あなたこそが全てなのです。
ですから、賢者にとっての宇宙観は
”わたしは限りがない[アハム プールナハ]”
賢くない人々は、私は限界ある者だ
[アハム ア・プールナハ]と言います。
賢者にとって「アハム ア・プールナハ」は、まるで夜の様です。
皆に昼であることが、賢者にはまるで夜の様で
皆に夜である事が、賢者にはまるで昼の様です。
この様に、賢者は賢者で
賢者でない人は、賢者でない人なのです。
賢者でない人は、賢者を知りません。
昼と夜は出会わない様に
賢者は、賢者でない人の様に世界を見ません。
これらは交わらず、正反対です。
夜が明けると、夜は去り
夜が来ると、昼は去ります。
スワミジのお話:太陽と暗闇さん
ナーラダが太陽神に
「太陽神でさえも見た事のない人がいる」と言うので
「私が見たことがない人とは誰なのだ?」
と太陽神はナーラダに尋ねます。
ナーラダは「暗闇さんと呼ばれる女性です」
と答えました。
「何処に暗闇はいるのか?」と太陽が尋ねると
「彼女は今インドです。インドに行けば会えるでしょう」
とナーラダが言いました。
暗闇さんを見たくて、太陽は東の空に昇りましたが
暗闇さんは、地球の反対側西のアンティポディーシュに行き
太陽神は怒り、本気でこの女性と会いたいがゆえ
再び彼女の後を追いましたが
太陽が東に昇ると、暗闇さんは西に行き
太陽が西に沈むと、暗闇さんは東に来るのでした。
こうして太陽は、暗闇さんを見つけようと回り続け
今日でさえ続けています。
—
知識と無知は交わらないので
クリシュナが教えたからと言って
アルジュナが賢くなるわけではありません。
イーシュワラは天国や、限定される場所にいる人で
その彼が、人を地上に落とし
状況や出来事に干渉していると考える人がいます。
なぜなら「わたしが、ありとあらゆるものである」
という真実が、彼らにとってはリアルでは無いのですから。
様々な憶測、思惑、信念、信仰があります。
賢者にとっては、全てが栄光、輝き[ヴィブーティ]です。
わたしの栄光[ママ ヴィブータヤハ]。
わたしは食べられる食べ物です[アハム アンナム]
わたしは食べ物を食べる人です[アハム アンナーダハ]
わたしは又、こういったこと全てから自由です。
無知な人は、この真実の宇宙観に目覚めず
無知な人が、目覚めていることに
賢者は目覚めてはいません。
これは、ロープを蛇に見間違えるのと似ています。
蛇を見る人は、恐れに震えますが
ロープをロープと見る人は
思いやりでその人と接するか
問題を見ないので単に通り過ぎるかです。
その人は、蛇がいると言われても
蛇ではなくロープがあるだけだと答えます。
アルジュナは、賢くあることでのみ、賢者を理解します。
実際は、賢者といった様なものも無いのです。
智慧があなたです。
あなたが智慧なのです。
賢者とは、自分自身を知っている人です。
あなたが、あなた自身を知るなら、あなたは賢者です。
あなたが自分自身を知るまでは、賢者を理解出来ません。
これは、アルジュナにとっては失望的でした。
なぜなら賢者の特徴を真似ることで
賢くなるだろうと思い
その特徴をクリシュナに質問したのですから。