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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章05番目の詩②

2021/02/08

न हि कश्चित् क्षणमपि जातु तिष्ठत्यकर्मकृत् ।

na hi kaścit kṣaṇamapi jātu tiṣṭhatyakarmakṛt |

कार्यते ह्यवशः कर्म सर्वः प्रकृतिजैर्गुणैः ॥३.५॥

kāryate hyavaśaḥ karma sarvaḥ prakṛtijairguṇaiḥ ||3.5||

実際、一瞬でさえ、行いすること無くいれる人は誰もいません

なぜならプラクルティから生まれたグナにより私達は皆、抵抗もできず行いをさせられているのです[3-5]

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プラクルティは、世界の物質の源に与えられた言葉で、サットヴァ、ラジャス、タマスという3つの性質[グナ]を持つプラクルティから考えも生まれています。

源[プラクルティ]は3つの質がある為、出来上がった結果の中にもその質はあります。

例えば、金は1つのバングルの源で、金には性質や重さがあり、金の重さがバングルの重さで、金の持つ色もバングルの色です。

金は錆びず、バングルも錆びません。

可鍛性や、強度を持つその源が金で、常にバングルは、金と同じ質、全てを持っているのです。

同様に考え[アンタハ・カラナ]はプラクルティから生まれ、サットヴァ、ラジャス、タマスという質があります。

それらの質が、それぞれある種の願望や表現を生み出します。

生み出された願望や表現は、それぞれの質によって分類されます。

例えば、”与える”にも3種類あり、見返りを期待し、投資するような与え方はタマスから生まれ、プライドを保つために与えることは、ラジャスから生まれ、為さなければならないので与え、一旦与えるなら、すぐに忘れる様な与え方はサットヴァから生まれます。

3つの中にはっきりとした区別があります。

欲望にも3種類の表現があります。

これらの欲望に駆り立てられ人は、行いをします。

全ての生き物は行いをし、それから逃れることは出来ません。

誰も、行いをせずにいられません。

ですから、行いの無いこと[ナイシュカルミャ]は達成することはありません。

ナイシュカルミャは、理解で”自分が行い手である”という観念から自由であると知ることです。

こうしてのみ、ナイシュカルミャ、いわゆるモークシャが得られます。

カルマ・サンニャーサを選んだとしてもサルヴァ・カルマ・サンニャーサを得たことにはならず、ある種の義務を免除されただけのことです。

もしラーガ・ドヴェーシャがあるなら、カルマ・ヨーギーになった方がいいでしょう。

しかし、考え深くかつ自己の知識の追求以外、何も興味がないのであればサンニャーサがいいです。

これは、意義ある生き方をしてきて、サンニャーサの準備が出来ていることを意味しています。

その時にだけ、サンニャーシーになるべきです。