【ギーター】第2章69番目の詩⑤
2021/02/20
या निशा सर्वभूतानां तस्यां जागर्ति संयमी ।
yā niśā sarvabhūtānāṃ tasyāṃ jāgarti saṃyamī |
यस्यां जाग्रति भूतानि सा निशा पश्यतो मुनेः ॥२.६९॥
yasyāṃ jāgrati bhūtāni sā niśā paśyato muneḥ ||2.69||
全ての生きものにとっての夜の中で
自分を熟知している賢者は目覚めています
生きものが目覚めているその中に
気づいている賢者にとっては夜です[2-69]
–
「私はこれです。私はあれです」と
自分自身を何者かだと見なしている人にだけ
ヴェーダによって、カルマが申し付けられます。
ひとたび知識が現われたなら、それは留まります。
自分自身の知識は、現れてくる知識ではなく
知識は、余すところなく輝いています。
世間的なカルマと、聖典の言うカルマ
この両方が、この知識の目覚めで去ります。
全ての活動[ヴャヴァハーラ]は
「私は行いをする人」という観念から生まれているのですから。
活動そのものは、自分自身の無知から生まれます。
あなたが自分自身を行い手として考えない限り
聖典で教えられる行いも、世間的な行いも
あなたは活動をすることは出来ません。
こうして、全ての活動[ヴャヴァハーラ]は
去って行くと言われます。
–
行い手という観念を取り除く 知識は
無知の産物を取り除くのか?
あるいは無知そのものを取り除くのか?
シャンカラは解説します。
知識が起こったら、無知が取り除かれます。
リアルとリアルでないものの識別という本質の知識
[アートマ・アナートマ・ヴィヴェーカ・ニャーナ]
は、無知とは相反するものです。
自分自身の知識が起こる時
自分自身の無知は去ります。
そして無知が去る時、その子どもたち
つまりその産物であるものも去ります。
伝統的な例え話を使うなら
ロープの無知が蛇を作り出し
ロープの無知が去れば、蛇も去ります。
では、いつロープの無知は去るのでしょう?
ロープが見られた時、それが知られた時です。
ロープの無知が去る時
その無知によって、あたかも在ったものも去ります。
問題の原因が除かれた時、その兆候も消えるのです。
同様に、理解した人の全活動は去り
全てのカルマを手放した人
[サルヴァ・カルマ・サンニャーシー]となります。
ヴェーダは、為すべきカルマを詳しく述べますが
シャンカラは、誰がそれを行うべきかを明確にします。
「私はブランマチャーリーである」
「私は結婚した人である」
「私は時間や、春、新月、満月、朝や夜に拘束されている人である」
この様な観念を持つ人です。
自分自身について、この様な観念を持つ人
時間や、場所、グループに限られた人だと考える人に
シュルティであるヴェーダが
儀式をする様、呼び止め話しかけるのです。
「私はサット・チット・アーナンダである」と知っているなら
シュルティは、全くその人を呼び止め話しかけません。
実際シュルティは、ヴェーダーンタと呼ばれる最後の章で
あなたはサット・チット・アーナンダであると言います。
それまではヴェーダは、もっぱら儀式と瞑想
二元性[ドヴァイタ]について話します。
全ての最後に、それは、やっと言うのです。
「あなたはブランマンである。タット トヴァム アシ」と。