2021-02-24

【ギーター】第2章69番目の詩⑤

2021/02/20

या निशा सर्वभूतानां तस्यां जागर्ति संयमी ।

yā niśā sarvabhūtānāṃ tasyāṃ jāgarti saṃyamī |

यस्यां जाग्रति भूतानि सा निशा पश्यतो मुनेः ॥२.६९॥

yasyāṃ jāgrati bhūtāni sā niśā paśyato muneḥ ||2.69||

全ての生きものにとっての夜の中で

自分を熟知している賢者は目覚めています

生きものが目覚めているその中に

気づいている賢者にとっては夜です[2-69]

「私はこれです。私はあれです」と

自分自身を何者かだと見なしている人にだけ

ヴェーダによって、カルマが申し付けられます。

ひとたび知識が現われたなら、それは留まります。

自分自身の知識は、現れてくる知識ではなく

知識は、余すところなく輝いています。

世間的なカルマと、聖典の言うカルマ

この両方が、この知識の目覚めで去ります。

全ての活動[ヴャヴァハーラ]は

「私は行いをする人」という観念から生まれているのですから。

活動そのものは、自分自身の無知から生まれます。

あなたが自分自身を行い手として考えない限り

聖典で教えられる行いも、世間的な行いも

あなたは活動をすることは出来ません。

こうして、全ての活動[ヴャヴァハーラ]は

去って行くと言われます。

行い手という観念を取り除く
知識は

無知の産物を取り除くのか?

あるいは無知そのものを取り除くのか?

シャンカラは解説します。

知識が起こったら、無知が取り除かれます。

リアルとリアルでないものの識別という本質の知識

[アートマ・アナートマ・ヴィヴェーカ・ニャーナ]

は、無知とは相反するものです。

自分自身の知識が起こる時

自分自身の無知は去ります。

そして無知が去る時、その子どもたち

つまりその産物であるものも去ります。



伝統的な例え話を使うなら

ロープの無知が蛇を作り出し

ロープの無知が去れば、蛇も去ります。

では、いつロープの無知は去るのでしょう?

ロープが見られた時、それが知られた時です。

ロープの無知が去る時

その無知によって、あたかも在ったものも去ります。

問題の原因が除かれた時、その兆候も消えるのです。

同様に、理解した人の全活動は去り

全てのカルマを手放した人

[サルヴァ・カルマ・サンニャーシー]となります。



ヴェーダは、為すべきカルマを詳しく述べますが

シャンカラは、誰がそれを行うべきかを明確にします。

「私はブランマチャーリーである」

「私は結婚した人である」

「私は時間や、春、新月、満月、朝や夜に拘束されている人である」

この様な観念を持つ人です。

自分自身について、この様な観念を持つ人

時間や、場所、グループに限られた人だと考える人に

シュルティであるヴェーダが

儀式をする様、呼び止め話しかけるのです。



「私はサット・チット・アーナンダである」と知っているなら

シュルティは、全くその人を呼び止め話しかけません。

実際シュルティは、ヴェーダーンタと呼ばれる最後の章で

あなたはサット・チット・アーナンダであると言います。

それまではヴェーダは、もっぱら儀式と瞑想

二元性[ドヴァイタ]について話します。

全ての最後に、それは、やっと言うのです。

「あなたはブランマンである。タット トヴァム アシ」と。

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