
यस्त्विन्द्रियाणि मनसा नियम्यारभतेऽर्जुन ।
कर्मेन्द्रियैः कर्मयोगमसक्तः स विशिष्यते ॥३.७॥
yastvindriyāṇi manasā niyamyārabhate arjuna |
karmendriyaiḥ karmayogamasaktaḥ sa viśiṣyate ||3.7||
アルジュナよ。一方、考え(識別)によって感覚器官を制御しながら、執着を手放して、行動器官を使っての、カルマ・ヨーガを選択する人は、ずっと優れている。
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真の制御とは、単に行為を止めることではなく、知性[buddhi]による、見極め[viveka]を通して、感覚器官を自らの指揮下に置くことです。
このような生き方を選ぶ人をカルマ・ヨーギーと呼びます。
カルマ・ヨーガとは単なる「行い」ではなく、行いとその結果に対する「正しい理解」そのものを指します。
通常、人はラーガ・ドヴェーシャを満たし、安心や喜びを得るために祈りや儀式[vaidika-karma]や、日常の行い[laukika-karma]に励みます。
これらは、カーミャ・カルマ[kāmya-karma]と呼ばれ、結果に執着する人[karmī]の生き方です。
しかし、同じ行いであっても、それを自己の知識[mokṣa]を得るための、アンタッカラナ・シュッディという手段[sādhana]として行うとき、それはラーガ・ドヴェーシャを中和するプロセスへと変わります。
感覚の対象を追い求めるだけの人生は、やがて「楽しんでいるつもりが、対象に心身を食いつぶされている」という逆転現象を招きます。
執着を手放し、結果を神からもお下がりとして受け取るカルマ・ヨーガの態度は、人をこの終わりのない消費のサイクルから解放し、真の知識へと導く不可欠な準備となります。
◎祈りという行い
カルマ・ヨーギーにとって、聖典の儀式[vaidika]と日常生活[laukika]に本質的な違いはありません。
全ての行いをイーシュワラと調和して行う時、あらゆる行いは「祈り」となります。
ここで「結果に執着しない[a-sakta]」とは、何も期待せず無気力に行うことではなく、ラーガ・ドヴェーシャを基準に行いを選ばないという意味です。
通常、人は「自分に都合が良いか、悪いか」で動きますが、カルマ・ヨーギーは「それはダルマか」を基準にします。
カルマ・ヨーギーはまだ知識が完全ではないため、後悔や迷いを感じることもありますが、ヴィヴェーカを持っています。
彼らの目的は、単なるカルマ・パラではなく、真実を知るためのアンタッカラナ・シュッディです。
それは、イーシュワラを理解し、モークシャへと至るための不可欠な準備です。
◎神の知識はその人自身の知識
マハー・ヴァーキャの1つである「あなたはそれである[tat tvam asi]」が示す通り、自分自身を知ることと神を知ることはイコールです。
カルマ・ヨーガとは、神から何かを「得る」ためのラーガ・ドヴェーシャではなく、神そのものを「知る」ためのアンタッカラナ・シュッディにあります。
これに対し、物理的に座っているだけで、考えは執着でいっぱいの「怠惰な人」や、ハワイのプラネタリウムのように大掛かりで複雑な仕組みを持ちながら、結局は何一つ生み出さない様に、多忙に見えても無為に過ごす人は、何も達成することができない(空回り)と言われました。
一方、正しい考え方を持って日々生活するカルマ・ヨーギーは、この詩の「viśiṣyate」という言葉は、単に優れているだけでなく、究極の目的であるモークシャへと至る唯一の道を歩むことを意味します。
それは偽善的な放棄とは比較にすらならない、本質的に異なる生き方なのです。
