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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章07番目の詩②

2021/03/08

यस्त्विन्द्रियाणि मनसा नियम्यारभतेऽर्जुन ।

कर्मेन्द्रियैः कर्मयोगमसक्तः स विशिष्यते ॥३.७॥

yastvindriyāṇi manasā niyamyārabhate:'rjuna |

karmendriyaiḥ karmayogamasaktaḥ sa viśiṣyate ||3.7||

アルジュナよ。一方、考え(識別)によって感覚器官を制御しながら、執着を手放し
行動器官を使い、
カルマ・ヨーガを選択する人は、ずっと優れている[7]

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ダルマに従った行いも、カルマは、ラーガとドヴェーシャのみを満たす為であり、安心と、喜びを得ることを目的としています。

その様なカルマはカーミャ・カルマと呼ばれ、カルマをする人[カルミー]、行いの結果にとらわれている人[カルマタ]と言います。

執着しない人[アサクタ]は、知識の為、考えを整える目的でカルマを行う人です。

その様な人にとって祈りや、ヴァイディカ・カルマは、祈りの喜びの為、考えをきれいにする[アンタハ・カラナ・シュッディ]為のものです。

モークシャの為のアンタハ・カラナ・シュッディも、カーミャ・カルマの範疇ですが、ラーガ・ドヴェーシャから為されるのでは無いことは、理解されるべきことで、それ以外は喜びを楽しむための手段[ボーガ・サーダナ]です。

あなたが、楽しんでいる様に思えますが、その対象物が、あなたを味わい楽しみます。

子供時代は、体は成長し、背も高く強くなり、食べることで育ちましたが、大人になると、以前は食べて大きくなっていたのに、今や食べても衰えています。

対象物が、あなたの肝臓や、腎臓、全てを奪い去ってしまうのです。

今や、誰が食べているのでしょうか?

あなたは食べ物を食べているのではなく、食べ物にあなたが食べられています。

ヴァイディカ・カルマをする人は、自分が楽しむ人であると考えますし、行いの結果に執着する人[パラ・アーサクタ]と言われます。

これは、ラウキカ・カルマでも同じように当てはまりますが、カルマ・ヨーギーには、ラウキカ・カルマはありません。

ヨーギーの全ての行いは、ただ神[イーシュワラ]に祈ることだからです。

この事実を理解するなら、あなたはイーシュワラに調和し、行いは何であれ祈りとなります。

ラウキカ、ヴァイディカなどなく、これらの言葉は、儀式的な行い、儀式的でない行いを区別する為に使われているだけです。

ダルマすなわち、イーシュワラに沿った行いは祈りで、ラーガ・ドヴェーシャからなされたものではありません。

「行いの結果に執着しないでいること」という表現は、様々な混乱の原因になります。

それは、結果を期待せずに、誰も行いをしないからです。

執着のない人[ア・サクタ]という言葉は、ヴァイディカ、ラウキカどちらもラーガ・ドヴェーシャに基づいていないという意味の専門用語です。

あなたからいつも離れている、望ましいもの[ラーガ]、あなたが避けたい、取り除きたいと望むもの[ドヴェーシャ]

ラーガ・ドヴェーシャに左右されない行いは、ダルマに沿ってされた行いでアンタハ・カラナ・シュッディの為です。

この詩のアサクタは、何らかの制御を味わい楽しんでいる人のことを指します。

そうでないと、ラーガ・ドヴェーシャがすべきことを決めてしまいます。

空想にすぐ巻き込まれ、頭に浮かんだことをしてしまいます。

ダルマ・アダルマ基準ではなく都合の良さ基準です。

一方、カルマ・ヨーギーはある程度、行動器官、感覚器官を制御できます。

ここで、「ある程度」という言葉を使うのは、カルマ・ヨーギーも自己に関して無知である人[アッ・ニャ]だからです。

この人は、こうしてしまった、こうしなかった、こうされた、こうしてもらえなかったという思い

[オミッション・コミッション]があるかもしれませんが、いつもある程度、制御があります。

アンタハ・カラナ・シュッディとモークシャだけに興味があるので、カルマ・ヨーギーはすべきことをします。

考えをきれいにすることは、厳密に言えば、行いの結果得られるものですが、ラーガ・ドヴェーシャに基づくものではなく、一般的な意味でのカルマ・パラとして述べられたものではありません。

モークシャを得たいとは、アートマーを、イーシュワラを知りたいということです。