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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章01番目の詩①

2021/04/29

श्रीभगवान् उवाच ।

अनाश्रितः कर्मफलं कार्यं कर्म करोति यः ।

स सन्न्यासी च योगी च न निरग्निर्न चाक्रियः ॥६.१॥

śrībhagavān uvāca |

anāśritaḥ karmaphalaṃ kāryaṃ karma karoti yaḥ |

sa sannyāsī ca yogī ca na niragnirna cākriyaḥ ||6.1||

バガヴァーンが言いました

行いの結果に執着せず、なすべきことをする人は

サンニャーシーであり、ヨーギーであり

全ての火の儀式を手放し、その他の行いもしない

単なるサンニャーシーではありません。

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あらゆることに、ゴール[サーデャ]の為の手段[サーダナ]があります。

ゴールがサムサーラからの自由であれば、2つの側面があります。

1.カルマ・ヨーガという外側の手段[バヒランガ・サーダナ]

2.瞑想[デャーナ]という内側の手段[アンタランガ・サーダナ]

両方がモークシャのための考えの準備です。

考えは、いつも不安定なもの[チャラ]で、その状態からの自由を、ニシュチャラと言います。

ニシュチャラの本質、つまり整理され、落ち着いた考えをナイシュチャルヤと言い、それは、瞑想[デャーナ]、すなわち内側の手段[アンタランガ・サーダナ]の結果です。

きれいな考え[アンタッ・カラナ・シュッディ]は、ラーガ・ドヴェーシャから自分自身を自由にすることで得られますが、カルマ・ヨーガは外側の手段で、内側の手段として瞑想[デャーナ]をクリシュナはここで紹介しています。

この詩でカルマは、様々な、しなければならない行い[カーリャム カルマ]のことで、ヨーギーは、こうした行いを結果に頼ることなく(執着せず)行います。

ヨーギーは、行いでかなう結果[カルマ・パラ]だけが、行いをする為の大切な基準や目的になるのではありません。

一方、カルミーは、個人的な好き嫌いが選択の要因、ラーガ・ドヴェーシャを満たさなければならず、規範、善悪[ダルマ・アダルマ]は考慮には入れません。

ラーガとドヴェーシャが行動規範となるので、カルミーは行いの結果に完全に執着しています[カルマ・パラ・アーシュリタハ]。

そして、それこそがカルマ・ヨーギーが手放さなければならないことです。

そうでなければ、まだカルミーです。

カルマ・ヨーギーも好き嫌いはありますが、それを手放していて、影響されない人なのです。

「これが、どうしても欲しい」「これは、どうしても避けたい」というラーガ・ドヴェーシャに左右されず、ダルマとアダルマに従ってなすべきことを行います。

ダルマを超える範囲のラーガ・ドヴェーシャは手放され、ダルマに従い、ラーガ・ドヴェーシャが追い求められ達成されるのです。