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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章01番目の詩

श्रीभगवान् उवाच ।

अनाश्रितः कर्मफलं कार्यं कर्म करोति यः ।

स सन्न्यासी च योगी च न निरग्निर्न चाक्रियः ॥६.१॥

śrībhagavān uvāca |

anāśritaḥ karmaphalaṃ kāryaṃ karma karoti yaḥ |

sa sannyāsī ca yogī ca na niragnirna cākriyaḥ ||6.1||

バガヴァーンが言いました

行いの結果に執着せず、なすべきことをする人は、サンニャーシーであり、ヨーギーであり

全ての火の儀式を手放し、その他の行いもしない、単なるサンニャーシーではありません。

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あらゆることに、ゴール[サーデャ]の為の手段[サーダナ]があります。

ゴールがサムサーラからの自由であれば、2つの側面があります。

1.カルマ・ヨーガという外側の手段[バヒランガ・サーダナ]

2.瞑想[デャーナ]という内側の手段[アンタランガ・サーダナ]

両方がモークシャのための考えの準備です。

考えは、いつも不安定なもの[チャラ]で、その状態からの自由を、ニシュチャラと言います。

ニシュチャラの本質、つまり整理され、落ち着いた考えをナイシュチャルヤと言い、それは、瞑想[デャーナ]、すなわち内側の手段[アンタランガ・サーダナ]の結果です。

きれいな考え[アンタッ・カラナ・シュッディ]は、ラーガ・ドヴェーシャから自分自身を自由にすることで得られますが、カルマ・ヨーガは外側の手段で、内側の手段として瞑想[デャーナ]をクリシュナはここで紹介しています。

この詩でカルマは、様々な、しなければならない行い[カーリャム カルマ]のことで、ヨーギーは、こうした行いを結果に頼ることなく(執着せず)行います。

ヨーギーは、行いでかなう結果[カルマ・パラ]だけが、行いをする為の大切な基準や目的になるのではありません。

一方、カルミーは、個人的な好き嫌いが選択の要因、ラーガ・ドヴェーシャを満たさなければならず、規範、善悪[ダルマ・アダルマ]は考慮には入れません。

ラーガとドヴェーシャが行動規範となるので、カルミーは行いの結果に完全に執着しています[カルマ・パラ・アーシュリタハ]。

そして、それこそがカルマ・ヨーギーが手放さなければならないことです。

そうでなければ、まだカルミーです。

カルマ・ヨーギーも好き嫌いはありますが、それを手放していて、影響されない人なのです。

「これが、どうしても欲しい」「これは、どうしても避けたい」というラーガ・ドヴェーシャに左右されず、ダルマとアダルマに従ってなすべきことを行います。

ダルマを超える範囲のラーガ・ドヴェーシャは手放され、ダルマに従い、ラーガ・ドヴェーシャが追い求められ達成されるのです。

カルマ・ヨーギーは、好き嫌い[ラーガ・ドヴェーシャ]が無い人ではなく、それを手放し影響されない人です。

「これが絶対に欲しい」「これは絶対に避けたい」という束縛された欲求に左右されず、ダルマとアダルマに従ってなすべきことをします。

「お金を稼ぐこと」が目的でもいいですが、お金を得る手段に、ダルマ・アダルマの選択があることを理解します。

選択が、ラーガ・ドヴェーシャではなく、ダルマが基準である人がカルマ・ヨーギーです。

好きであろうが、嫌いであろうが、すべきことをするので、ある意味サンニャーシーです。

クリシュナは、ここでその様な人をカルマ・ヨーギーと言い、カルマ・ヨーギーはサンニャーシーとも言えると述べました。

カルマ・ヨーギーは完全なサンニャーシーでは無いにしても、ラーガ・ドヴェーシャを手放しているという意味で、サンニャーシーの資質を持っています。

カルマ・ヨーギーでなければ、手段を選ばず結果だけを追い求めます。

目的の為に手段を選ばない人をカルミーと言います。

価値の価値

「私は不幸だ」と言って、喜びを追い求める人がいますが、喜びの価値が正しく理解されていません。

その喜びには、限りがあるということが理解されていません。

どんな幸せを手に入れたとしても、自分が幸せでなければ、決して幸せはありませんし、どんな安心を手に入れたとしても、自分が安心でなければ、決して安心はありません。

同時に、普遍的価値(サーマーンニャダルマ、イーシュワラ)も十分に理解されず、その価値を選ばない時、何を失うかが見えていません。

価値の価値が、本当の意味で知らないことから、混乱が起こります。

普遍的価値(サーマーンニャダルマ、イーシュワラ)の評価は薄く、お金や権力など、一般的に価値に、過大な価値を置いてしまいます。

しかし、この「価値」が明確に理解されるならば、もはや、それらは限りのある価値であることが分かります。

人は、幸せを求めアルタ、カーマを求めますが、アルタ、カーマの価値を正しく理解していません。

アルタ、カーマは価値があるものの、それらは限りがあることを理解していないのです。

同時に、普遍的価値[サーマーンニャ・ダルマ=イーシュワラ]も十分に理解されず、その価値を選ばない時、何を失うかが見えていません。

価値の価値を知らないことから、混乱が起こります。

普遍的価値[サーマーンニャ・ダルマ]の評価は薄く、お金や権力など、一般的な価値に過大な価値を置いてしまいます。

カルマ・ヨーギーは、ラーガ・ドヴェーシャが未だある為、価値構造を十分に理解し、注意深く、カルマ・ヨーガの生き方をしなければなりません。

それは「目先の利益や褒美が大切か?」それとも「イーシュワラと共にいたいのか?」です。

イーシュワラと共にいたいのであれば、目先の利益や褒美は自然と選ばなくなるはずです。

モークシャの為のカルマ・ヨーガの人生とは、イーシュワラへのコミットですから、ラーガとドヴェーシャや今までの癖は自然と手放されていきます。

カルマ・ヨーギーは、きれいな考え[アンタハ・カラナ・シュッディ]を意味する、知識への欲求があります。

少なくとも、成熟した人になりたい、きれいな考えを得たい、と望むなら何かを手放さなければなりません。

葛藤の原因[ヴィクシェーパ・ヘートゥ]が手放され、葛藤の種である間違った行いを手放すのです。

間違った行いは、する前から、すべきかどうかで葛藤があり、している間も、し終えた後も葛藤があります。

しかし、ダルマに調和する行いをするなら、行う前は選択に関する葛藤があるにしても、正しいことを選ぶなら、もう葛藤はありません。

カルマ・ヨーギーは、最初葛藤があっても、最後は葛藤なく終えます。

サンニャーシーもカルマ・ヨーギーも、ラーガ・ドヴェーシャの魔力に左右されないので、クリシュナは「好き嫌いに執着せず、なすべきことを行うことで、人はサンニャーシーで、ヨーギーでもある」とアルジュナに言います。

続けてクリシュナは「火の儀式を手放し、その他の行いもしない、単なるサンニャーシーでは無い[ナ ニル・アッグニヒ ナ チャ ア・クリヤハ]」を説明します。

[ニル・アッグニヒ]と[ア・クリヤハ]の2つは、サンニャーサの生活を選んだ人が手放した2つの側面の行い、ヴァイディカ・カルマと、ラウキカ・カルマを指しています。

サンニャーシーになる前には、毎日の儀式[ニッテャ・カルマ]と、四季折々の催事[ナイミッティカ・カルマ]と呼ばれるヴェーダの儀式を行います。

全てのヴェーダの儀式は、火[アッグニ]がつきものですが、サンニャーシーは火の儀式もしないので、この詩の中でニラッグニと表現されています。

更にサンニャーシーは、他のあらゆる行い、宗教的なもの、家庭の義務、ビジネスに関する全てを手放します。

つまり果たすべき役割は無い、あらゆる行いを手放した人[ア・クリヤ]と言われます。

サンニャーサの儀式で、ヴァイディカ・カルマと、ラウキカ・カルマ全てを手放した時、その人はサンニャーシーと呼ばれます。

最近は、郵送でサンニャーシーになる人もいるようですが、サンニャーシーになる為には、ヴェーダーンタを教える先生に、「この人は精神的に独立していて、サンニャーシーとして生きながら、ヴェーダーンタを勉強し続け、その意味を理解出来るほどに成長している」と判断してもらわなければなりません。

重要なポイントは、サンニャーサの生活を選ぶとてラーガ・ドヴェーシャが無いとは限らない、ということです。

教えというものが何かを知らず「私は人々を救いたい、人々に仕えたい情熱があります」と、教えで人を助けたいという欲望を持つ人がいます。

しかし、「本当に人を助けたいのか?それとも自分自身を救いたいのか?」と聞くべきです。

人を助けたいのであれば、最初に自分自身を救わねばなりません。

自分自身が、あらゆる助けが必要なら、どの様に人に奉仕できますか?

ラーガ・ドヴェーシャにがんじがらめで、このシンプルな事実さえ理解できないかもしれません。

ですから、サンニャーサを選ぶことで、知識を得たサンニャーシーになるというわけではありません。