2021/05/15
विहाय कामान् यः सर्वान् पुमांश्चरति निस्पृहः ।
vihāya kāmān yaḥ sarvān pumāṃścarati nispṛhaḥ |
निर्ममो निरहङ्कारः स शान्तिमधिगच्छति ॥२.७१॥
nirmamo nirahaṅkāraḥ sa śāntimadhigacchati ||2.71||
全ての束縛ある欲求を手放し、切望から自由で
私、私の物、という感覚から自由で
動き回るその人はシャーンティを得ます[71]
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私達は、欲求の抑圧で動き回るかもしれませんが、賢者は、その様な束縛、抑圧のある欲求から自由です。
活動的な賢者がいたとしても、活動がその人の智慧を変えたりしません。
行い手である、体験者である、という「私」という観念は無いのですから。
変化がなく、シャーンティだけが残ります。
世界が賢者に入る時も、何かをしたとしても、その人が、体験者や行い手になったりしません。
土の中に、ポットらしさが無い様に、質のないわたしの中に、行い手や体験者はありません。
体験者、行い手、両方が賢者によって否定されました。
体験者や行い手は、まるであり、本質的にそれはありません。
これがバーディタと言います。
知識があり、「わたし」に集約される、行い手や体験者というリアリティが否定されます。
クリシュナはアルジュナに話し、シャンカラは解説を書き、行いをする人(行い手)でしたが、自分自身を行いをする人であるとは見てはいません。
賢者にとっての行い手は、しているだけで「私は行い手」という観念はありません。
スティタ・プラッニャはブランマンであり続けます。