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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章13番目の詩

यज्ञशिष्टाशिनः सन्तो मुच्यन्ते सर्वकिल्बिषैः ।

भुञ्जते ते त्वघं पापा ये पचन्त्यात्मकारणात् ॥३.१३॥

yajñaśiṣṭāśinaḥ santo mucyante sarvakilbiṣaiḥ |

bhuñjate te tvaghaṃ pāpā ye pacantyātmakāraṇāt ||3.13||

まず神に食事を捧げてから食べる人は、不純さから解放されます

一方、自分のためだけに料理をする人は、罪深い人で罪[パーパ]を食べます[13]

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この詩の中でカルマ・ヨーガはヤッニャとして紹介されています。

神[イーシュワラ]が、宇宙の様々な力や基本元素として認識される、これらの個々の力が神々[デーヴァター]またはデーヴァです。

「私達がデーヴァ達をなだめ安らげますように、そしてデーヴァ達が、私達を祝福しますように」と言われました。

これは、私が、すべきことをするということです。

「自然の力は単なる力で、それは生き物ではない」などと見なしませんように。

夢を見ている時ですら、全ては意識[チェータナ・ヴァストゥ]であるイーシュワラの中にあります。

夢の中で見る山は、生きていない物[ジャダ]で、太陽やその光線も、見られるものは全てジャダで、チェータナではありません。

しかし、生きていない物と意識的な物の違い[ジャダ・チェータナ・ベーダ]は、夢の主体(夢を見る人)に知覚されるものの枠組みの中だけにあります。

夢を見ている人からしたら、夢を見る人の外側に世界などありません。

しかし、夢を見る人が、気づいている者(起きている人)であれば、夢の世界は、夢を見るその人から離れてはいません。

その人は、夢の世界の作者[ニミッタ・カーラナ]でもあり、その材料[ウパーダーナ・カーラナ]でもあるのですから。

夢を見る人の視点から言うと、生きている、生きていない、などは無く、全てのものがただ夢を見る人です。

同様に、イーシュワラの視点から、宇宙の力はイーシュワラから離れていないものとして認識されます。

イーシュワラの外側の物などないのですから、それらは単にジャダとして捉えられず、イーシュワラの視点からは、それらは全てデーヴァターなのです。

太陽も、空気、火、水、地も全てデーヴァター。

イーシュワラをこの様に認識し、デーヴァターの姿としての側面を理解し、人は様々な儀式や祈りという行いをします。

ヴェーダの宇宙観の一部として、その中に定められている、日々の儀式[ニッテャ・カルマ]や、特別な機会になされる儀式[ナイミッティカ・カルマ]、様々なすべき行いがあり、それらは全てを放棄する[サンニャーサ]をとるまで、例外なくなされるべきなのです。

行いの結果は、デーヴァター達から与えられた祝福です。

デーヴァターを理解し認識するなら、あなたは泥棒や詐欺師ではありません。

この詩でクリシュナは、泥棒とそうでない人を比べました。

日々の生活の中で、人は害を及ぼすカルマを避けることができず、命は命を糧にして生きています。

自由意思がなければ、間違った行い[パーパ・カルマ]などありません。

しかし人は、生き延びるために食べなければならず、ある種の傷つけること[ヒムサー]をします。

人間でない生き物、植物や、動物、虫が毎日殺され、パーパと呼ばれる心地良くない何らかの結果をもたらし、それは毎日貯まり続けます。

このパーパを中和するため、神々、先祖、仲間の生き物、この知識を与えてくれたリシ達へのヤッニャが毎日なされるべきで、それは1つの儀式の中に含まれます。

この詩の、最初に神に食事を捧げた後食べる人々[ヤッニャ・シシュターシナハ]のことを言っています。

今日、インドの人々は全てのヤッニャを、その方法通りに行っていないかもしれませんが、いつも神に食事を捧げてから食べます。

儀式そのものが重要なのではなく、大切なのは思い方[バーヴァナー]です。

残されたものだけが食べられるべきもの[ヤッニャ・シシュタ]、すなわちプラサーダという考え方があり、食事が料理され神に捧げられます。

神からの祝福[プラサーダ]だけを食べる人々は、食べ物を食べていません。

プラサーダだけを食べています。

ブラフマールパナム…の様な祈りと共に神に食事を捧げることで、食事そのものがプラサーダとなります。

このように、神に食事を捧げてから残ったものを食べる人は、日々集め続けられてきた全ての小さなパーパ[サルヴァキルビシャ]から解放される[ムッチャンテー]と言われます。

自分の幸福のために、粉に挽いたり、床を洗ったり、洗浄剤を撒いたり、歩いたりするだけで、私達は常に何かを殺しています。

事実、そうしなければ私達は生きることが出来ません。

私達が殺す微生物は、生きることを望んでいますが、私達もまた生きることを望んでいます。

共存は不可能で、微生物たちが滅ぼされなければなりません。

この破壊は、ある罪[アダルマ]を伴います。

クリシュナが指摘するように、これらは日々の祈りでのみ中和することが出来るのです。

サルヴァ・キルビシャイヒ ムッチャンテーという言葉は「全てのカルマから彼らは解き放たれる(モークシャ)」という意味にとることもできます。

パーパが中和されるだけでなく、知識で清められ、全てのプンニャとパーパから解き放たれるのです。

サンタハという言葉は、ヤッニャ・シシュターシナハと同じ意味と理解します。

あるいは「聖人(賢者)の様な人々[サットプルシャーハ]」という意味でもとることが出来、この場合は、ヤッニャ・シシュターシナハという言葉の形容詞です。

知識を得るために必要な考えを与えてくれる祈り深い生活により、彼らは賢者となります。

この詩の2行目で、ダルマよりもアダルマに基づいた行い[パーパ・カルマ]にふける人々についてクリシュナは描写します。

彼らはダルマやアダルマに全く無頓着で、自分に都合の良いことだけ、喜びや安全だけが重要なのです。

それ以上のものを何も見てはいないので、パーパを集め続け、食事を神に捧げず、パーパを食べます。

パーパが罪と言われますが、これはインドにおける文脈、ダルマとカルマの法則で理解されなければなりません。

サンスクリット語のパーパやプンニャのための正確な英語訳がないので、混乱しないために、パーパという言葉はサンスクリット語で留めておくのが良いです。

インドでの文脈で、パーパはいつも量が定められます。

交通違反の分野においてでさえ度合いの違いがあり、運転違反は駐車違反よりも深刻です。

駐車違反はただ支払うべき罰金があり、レッカーされるなら回収するのに高くつくかもしれませんが、支払い続ける必要はありません。

運転違反の様な保険料への影響はありません。

交通違反を統括している法律の様にカルマの法則というのは、なされた行いに相応しい結果が還ってくることを意味しています。

見える結果と見えない結果の両方があり、見えない結果が望ましくないものがパーパと呼ばれます。

デーヴァターたちへの捧げものとしてではなく、自分のためだけに料理をして食べる人はパーパだけを食べますが、神に食事を捧げてからのみ食べる人は、行いから集めてしまったかもしれない、あらゆるパーパを解消します。

壮大な宇宙を動かす車輪は、カルマによって絶え間なく回り続けています。

जगत्-चक्र-प्रवृत्ति-हेतुः 1/1 हि 0 कर्म 1/1 

世界の運行を促進している原因は、まさに行いです。

あなたは行い手、自由意思を享受する人で、あなたはその中の歯車です。

することもできるし、しなくてもよいのです。

木はそのように創られたので、木はすべきことをするだけです。

動物はそうするように創られたので、動物も期待されていることをします。

人間以外の生き物は、一定の方法にプログラムされているのでその通りに振る舞います。

人間は、自由意思によって行いをする生き物ですから行いの中に選択があります。

行いをするかもしれないし、しないかもしれないし、あるいは、違った方法でするかもしれないのです。

次の詩でクリシュナは、宇宙を動かす車輪が単にカルマによって、どのように回り続けているのかを描写します。