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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章13番目の詩②

2021/08/23

यज्ञशिष्टाशिनः सन्तो मुच्यन्ते सर्वकिल्बिषैः ।

भुञ्जते ते त्वघं पापा ये पचन्त्यात्मकारणात् ॥३.१३॥

yajñaśiṣṭāśinaḥ santo mucyante sarvakilbiṣaiḥ |

bhuñjate te tvaghaṃ pāpā ye pacantyātmakāraṇāt ||3.13||

まず神に食事を捧げてから食べる人は、不純さから解放されます

一方、自分のためだけに料理をする人は、罪深い人で罪[パーパ]を食べます[13]

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行いの結果は、デーヴァター達から与えられた祝福です。

デーヴァターを理解し認識するなら、あなたは泥棒や詐欺師ではありません。

この詩でクリシュナは、泥棒とそうでない人を比べました。

日々の生活の中で、人は害を及ぼすカルマを避けることができず、命は命を糧にして生きています。

自由意思がなければ、間違った行い[パーパ・カルマ]などありません。

しかし人は、生き延びるために食べなければならず、ある種の傷つけること[ヒムサー]をします。

人間でない生き物、植物や、動物、虫が毎日殺され、パーパと呼ばれる心地良くない何らかの結果をもたらし、それは毎日貯まり続けます。

このパーパを中和するため、神々、先祖、仲間の生き物、この知識を与えてくれたリシ達へのヤッニャが毎日なされるべきで、それは1つの儀式の中に含まれます。

この詩の、最初に神に食事を捧げた後食べる人々[ヤッニャ・シシュターシナハ]のことを言っています。

今日、インドの人々は全てのヤッニャを、その方法通りに行っていないかもしれませんが、いつも神に食事を捧げてから食べます。

儀式そのものが重要なのではなく、大切なのは思い方[バーヴァナー]です。

残されたものだけが食べられるべきもの[ヤッニャ・シシュタ]、すなわちプラサーダという考え方があり、食事が料理され神に捧げられます。

神からの祝福[プラサーダ]だけを食べる人々は、食べ物を食べていません。

プラサーダだけを食べています。

ブラフマールパナム…の様な祈りと共に神に食事を捧げることで、食事そのものがプラサーダとなります。

このように、神に食事を捧げてから残ったものを食べる人は、日々集め続けられてきた全ての小さなパーパ[サルヴァキルビシャ]から解放される[ムッチャンテー]と言われます。

自分の幸福のために、粉に挽いたり、床を洗ったり、洗浄剤を撒いたり、歩いたりするだけで、私達は常に何かを殺しています。

事実、そうしなければ私達は生きることが出来ません。

私達が殺す微生物は、生きることを望んでいますが、私達もまた生きることを望んでいます。

共存は不可能で、微生物たちが滅ぼされなければなりません。

この破壊は、ある罪[アダルマ]を伴います。

クリシュナが指摘するように、これらは日々の祈りでのみ中和することが出来るのです。