千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章15番目の詩①

कर्म ब्रह्मोद्भवं विद्धि ब्रह्माक्षरसमुद्भवम् ।

तस्मात् सर्वगतं ब्रह्म नित्यं यज्ञे प्रतिष्ठितम् ॥३.१५॥

karma brahmodbhavaṃ viddhi brahmākṣarasamudbhavam |

tasmāt sarvagataṃ brahma nityaṃ yajñe pratiṣṭhitam ||3.15||

カルマはヴェーダから、ヴェーダは滅びることのないもの[イーシュワラ]から

生まれたものであることをあなたが理解しますように

ですから、全てに満ちるヴェーダは、いつもヤッニャの中に宿っています

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この詩でカルマは、ヴェーダの儀式[ヴァイディカ・カルマ]を意味し、儀式[ヤッニャ]は、ヴェーダ[ブランマ]そのものから生まれているものと理解します。

ブランマンは3つの側面(破壊・創造・維持)の創造主[ブランマージ]の名前でもありますが、ここではカルマの原因としてのヴェーダを意味します。

ブランマンは、カルマの本質を明らかにするヴェーダで、カルマの原因ですから、人は儀式を持ちます。

カルマはヴェーダから生まれたと言われました。

ブランマンは、滅びないもの[アックシャラ]、決して死ぬことも生まれることもないものから生まれたと、この詩では言うので、ブランマンは、絶対的なブランマンではあり得ません。

サンスクリット語の辞書でもブランマンがヴェーダを意味すると言われています。

ヴェーダは、滅びることのないブランマンから生まれ、呼吸の様に努力せず生まれたとも言われ、人間の追及[プルシャ・アルタ]、安全[アルタ]、喜び[カーマ]、正義[ダルマ]、自由[モークシャ]を明らかにします。

人が必要とする全てのものを明らかにするので、ヴェーダは全知[サルヴァ・ニャ]で、イーシュワラに明かされたと言われました。

知識は作られるものではなく、常にありますが、無知に隠されています。

(1+1=2を知る時、それは知識が作られるのではなく、ただ知られていなかった。)

知識が作られるとしたら、作られる場所は無知の場所(もともと知識がない場所)か、無知ではない場所(もともと知識はあったが見えていない)かのどちらかです。

知識が無知の上に作られるものなら、その無知が残るので、無知のベース上に知識は作られ得ません。

また、光が現れたら暗闇が去る様に、知識が起こると無知が去るのでしょうか?

そして、作られるこの知識とは何でしょうか?

もし、あなたが何かを発見するとして、それはすでにそこにあるものなのか、あるいは、あなたが何かを作り出して、それを発見するのでしょうか?

何かを作り出すには、既ににそれを知らなければならないので、あなたは知識を作り出してはいません。

知識は既にそこにあります。

なぜなら、それがその事実の知識なのですから。

1つの特有のリアリティー、事実があり、その知識とは、そのリアリティーと同じく本当のことで、その特有な事実と同じく本当のことなのです。

ですから、知識は事実の理解にすぎません。

知識はいつもあるもの、全てはただ「あるがまま」、未来も「あがまま」です。

可能性としての未来が「ある」、この「あるがまま」を私たちは知識と呼びます。

全ての知識とは、イーシュワラ、全知として意味されます。

全ての知識があるとすると、イーシュワラは生きた意識的なもの。

意識的でないものは、生き物ではないのです。

その存在が意識であるイーシュワラは全知で、つまり、全知は意識の中にあります。

イーシュワラと関わりを持つ個人[ジーヴァ]も、生き物、意識的な存在です。

では、生き物である個人の本当の姿、本質は何でしょう?