ज्ञानविज्ञानतृप्तात्मा कूटस्थो विजितेन्द्रियः ।
युक्त इत्युच्यते योगी समलोष्टाश्मकाञ्चनः ॥६.८॥
jñānavijñānatṛptātmā kūṭastho vijitendriyaḥ |
yukta ityucyate yogī samaloṣṭāśmakāñcanaḥ ||6.8||
自己の知識に満足した考えを持つ人、変わらずにある人
感覚器官、行動器官を統括した人、土の塊も、石も金も、全て同じように見る
こういった整った考えを持つ落ち着いた人を、ヨーギーと言います
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jñāna-vijñāna-tṛpta-ātmā
ニャーナと、ヴィ・ニャーナによって、人は自分自身に満たされていて、完全であるという認識を持っている人[トゥルプタ]です。
シャンカラによって、サンジャータ・アラム・プラッテャヤと定義されました。
アラムとは、「適切な」ことや、「十分な」こと
プラッテャヤは、理解のこと
サンジャータとは、生まれた人のこと
すなわち「私は、十分満たされていて、何も欠けていない」という理解が生まれた人のことを言います。
その人は、ニャーナと、ヴィ・ニャーナによって常に幸せで、何があってもいつも満足しています。
どんな時も、自分自身が、不適切、不十分とは全く思わず、今までの全ての観念から自由です。
自分自身の栄光において、何も自分とは離れていないという意味で完全[プールナ]です。
このニャーナ・ヴィッニャーナ・トゥルプタ・アートマーという複合語[バフヴリヒ・サマーサ]の中の、アートマーという言葉は、考え[アンタッ・カラナ]を指します。
トゥルプタは、その考えが「アラム!(満たされている!)」という人。
ニャーナとヴィ・ニャーナ、洞察とシュラッダーから生まれた考え方を持つ人のことです。
この考え方(態度)は、自己についての直の知識[ヴィ・ニャーナ]に変換されたニャーナから生まれます。
ニャーナ・ヴィッニャーナ・トゥルプタ・アートマーは、賢者[ヨーギー]の定義を表すだけでなく、知識そのものの本質を明かす定義にもなります。
これがサンスクリット語の素晴らしいところです。
kūṭasthaḥ
賢者は、鉄床(かなとこ)のようにとどまる人[クータスタ]とも表現されています。
職人が刀を作る時、赤く熱した鉄の塊をたたき上げる鉄の台が鉄床です。
変化する鉄の塊を何度もハンマーで打ち続けられたとしても、その台は決して変わりません。
変わらず、起こりうる変化を起こるがまま受け入れている人をクータスタと言い、アートマーのように、何ものにも動じません。
シャンカラは、ニャーナ・ヴィッニャーナ・トゥルプタ・アートマーであるその人を、あらゆる状況にも揺り動かされない人[ア・プラカムピャ]と定義しました。
この人は、カルマ・ヨーガ、デャーナヨーガのライフスタイルで、祈りや、シャマの儀式など必要な鍛錬、聖典の学びを経て完全であるアートマーの知識を得ています。
あらゆる問題が存在するのは無知ゆえで、この知識を得ると自分を妨げるものは何もありません。
その人は、しっかりしていて、揺るがない人[ア・プラカムピャ]です。