ज्ञानविज्ञानतृप्तात्मा कूटस्थो विजितेन्द्रियः ।
युक्त इत्युच्यते योगी समलोष्टाश्मकाञ्चनः ॥६.८॥
jñānavijñānatṛptātmā kūṭastho vijitendriyaḥ |
yukta ityucyate yogī samaloṣṭāśmakāñcanaḥ ||6.8||
自己の知識に満足した考えを持つ人、変わらずにある人
感覚器官、行動器官を統括した人、土の塊も、石も金も、全て同じように見る
こういった整った考えを持つ落ち着いた人を、ヨーギーと言います
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人の美しさは、強さ、優しさ、他人への思いやりなどに宿り、時間や、考え、智恵、財産を、他人と共有する心構えが出来ていることです。
本当の意味で豊かな人だけが、分け合えることができ、この思いやりが、その人の美しさであり、強さでもあります。
時に人は、薄っぺらな思いやりから、他者の苦しみに自分自身を溶解させてしまいますが、思いやりとは、その人が溶けてなくなるようなものではありません。
誰かが助けを求め、その途中で、自分自身が溶けて流れ出してしまったら、何の役にも立ちません。
内側の充足から生まれる思いやりがあり、しっかりとした人、そのような人をトゥルプタと呼びます。
vijitendriyaḥ&yuktaḥ
これは、理想をかかげているのではなく、感覚器官がいつも様々な空想を統括していると理解します。
人を感覚器官の対象物に惹きつけさせるのは、空想を伴う制御されていない考えで、目が「何か見せて」と頼んだり、耳が「ヴェーダーンタの話はうんざり、何か音楽でも聞かせて」と言ったりしないということです。
「したいことが、すべきこと。したくないことは、すべきではない。」という人がヴィジタ・インドリヤで、整った考え、智恵を持つのでユクタハとも呼ばれます。
ムムクシュとして、以前はサーダナであったことが、今や、自動的で自然な賢者の美徳になりました。
このような人が、クリシュナがここで述べたヨーギーです。
samaloṣṭāśmakāñcanaḥ
さらに、その人は、サマ・ローシュタ・アシュマ・カーンチャナです。
サマとは、純粋にその人の反応が同じということです。
サマ・ローシュタ・アシュマ・カーンチャナにとって、土の固まりや石コロに比べ、貴重な石や金には、もっと安全がある、とは見ていません。
金の価値は分かっていても、それが自分に安心を与えるものではないことを知り、唯一、安心なのは自分自身のみであることを知っています。
唯一の安全は、自分がいなければ何も存在しないということ、あらゆるものの真実としての自分自身を知ることなのです。
この世界観がはっきりしたとき、その人は安全で、他に何も安全なものを必要としません。
金を金として、土を土として、石を石として、社会での利用価値など、物事の客観的な価値を理解しています。