千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章08番目の詩⑤

ज्ञानविज्ञानतृप्तात्मा कूटस्थो विजितेन्द्रियः ।

युक्त इत्युच्यते योगी समलोष्टाश्मकाञ्चनः ॥६.८॥

jñānavijñānatṛptātmā kūṭastho vijitendriyaḥ |

yukta ityucyate yogī samaloṣṭāśmakāñcanaḥ ||6.8||

自己の知識に満足した考えを持つ人、変わらずにある人

感覚器官、行動器官を統括した人、土の塊も、石も金も、全て同じように見る

こういった整った考えを持つ落ち着いた人を、ヨーギーと言います

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金が安全を与えたり、人を狂わせると考えるのは主観的な価値です。

例えば、数十万ドルの価値がある金銀財宝を預かって欲しいと頼まれると、眠れないかもしれませんが、古い掃除機を預って欲しいと頼まれても眠れないという問題はないでしょう。

金より多くの金属が、掃除機にあるのに問題にならないのは、金と同じ価値がないからです。

結果として、金が与えるのは、安心でしょうか?それとも不安でしょうか?

同様に、ただ道を歩いていても問題はありませんが、大金を持ち歩くなら不安に思い、不審な様子から強盗に襲われることがあるかもしれません。

ここで重要なポイントは、お金は安全なものではないということ。

安全ではないので、人を不安にさせ得るのです。

お金には、購買力や快適さを与えるという客観的な価値はあります。

しかし、お金に、その客観的な価値以上のものを見る、つまり「お金が私を安全にしてくれる」と思うなら、お金に対する価値は、ただただ主観的なものなのです。

全てが変化にさらされ、いつも変化します。

自分自身のみが変化しないもので、その自分とはわたしです。

わたしが唯一安全で、他の全てのものは常に変わり続けています。

考えも常に変わり続け、思いも、思考の対象も常に変わっています。

変化するものは時間に束縛され、始まりがあり、終わりがあります。

影響を受けずに存在する唯一のもの、あらゆるものの中で傷を受けない唯一のものは「わたし」つまり自分自身です。

この「わたし」の知識が明らかなら、つまり自分自身は安全であるという視点があれば、あなたは自由な人[ニャーナ・ヴィッニャーナ・トゥルプタ・アートマー]です。

自由であるがゆえに何も必要とせず、ただ世界をあるがままに見て理解します。

無意味なものを世界に投影しないので、見ている世界はシンプルな世界です。

世界は本来の姿で、わたしは寛ぐ自由な人です。

この自由を得るのが難しく思えるのは、あまりにシンプルすぎるからでしょうが、実際それがわたしです。

人はいつも、何か大きなものを捜し求めているので、この自由や安全が得がたく思えるのです。

限りのない自分は、生み出されるようなものではなく、生み出されるものではないので努力では得られません。

努力によって生み出される何かを探している限り、いつまでも見失います。

努力は、注意深さなど、成長という点においては確かにその価値はありますが、ここでは根本的な話で、わたしは既に安全です。