ज्ञानविज्ञानतृप्तात्मा कूटस्थो विजितेन्द्रियः ।
युक्त इत्युच्यते योगी समलोष्टाश्मकाञ्चनः ॥६.८॥
jñānavijñānatṛptātmā kūṭastho vijitendriyaḥ |
yukta ityucyate yogī samaloṣṭāśmakāñcanaḥ ||6.8||
自己の知識に満足した考えを持つ人、変わらずにある人
感覚器官、行動器官を統括した人、土の塊も、石も金も、全て同じように見る
こういった整った考えを持つ落ち着いた人を、ヨーギーと言います
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ロープをロープに見る[ヴャーヴァハーリカ(客観的)]のでは無く、蛇を自動的に見る[プラーティバーシカ(主観的)]なら、恐れも自動的です。
日常生活は、これと同じ事が起こっています。
ロープがロープと見える、考えが整っているならば、蛇も恐れもありません。
同様に、わたしが満たされている時、切望はありません。
金[カーンチャナ]は、同じカテゴリーの物の代表[ウパラクシャナ]です。
金だけでなく、全ての物が当てはまり、「神が存在し、私を守ってくれる」という観念も当てはまります。
多く人が「神はいるのか、いないのか」「私の神だけが本物」などに焦点を当てますが、「神とは何か?」がヴェーダーンタです。
神だけがあります。
神は、彼自身を守りますし、それはわたし自身です。
サマ・ローシュタ・アシュマ・カーンチャナである人の安全は、どんなものにも頼ってはいません。
土や石や金、全てに対し、こだわり無く平等に見ます。
金に対する賢者の態度は、石や土に対する態度と同じで、金がその人を安心させたりしません。
一般的に、金は、間違った安全の感覚を植え付けますが、実際不安な人(安全でない人)は、金があるからといって、安全になったりしません。
人は、金を資産としますから、金は、本質的な価値[イーシュワラ・スルシュティ]と、上乗せした価値[ジーヴァ・スルシュティ]両方を持ち、それこそがまるで安心感を与えます。
不安な人は、金があっても、安全にはなりません。
安全でないものは、いつも安全では無いのです。
賢者は、自分自身だけが安全であるとみなします。
安全になるために、この世界で金などを必要とせず、まさに唯一安全な人です。
この詩でクリシュナは、世界のあらゆる物に対する賢者の見方を描写し、次の詩では、様々な人に対する賢者の態度を描写します。