सुहृन्मित्रार्युदासीनमध्यस्थद्वेष्यबन्धुषु ।
suhṛnmitrāryudāsīnamadhyasthadveṣyabandhuṣu |
साधुष्वपि च पापेषु समबुद्धिर्विशिष्यते ॥६.९॥
sādhuṣvapi ca pāpeṣu samabuddhirviśiṣyate ||6.9||
利益をもたらしてくれる人、友人、敵、知人、仲裁者、嫌われるに値する人、親戚、
サードゥや罪人に対し、見方が全く変わらないその人は、最も優れた人です。
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見方が全く変わらない人[サマ・ブッディ]は、利益をもたらしてくれる人[スフルド]は、スフルドとして、パーピーはパーピーとして認識します。
大事なことは、サマ・ブッディは、パーピーとして人を非難しません。
実際、パーピーという人がいるのではなく、パーパの行いをしてしまう人がいるだけです。
人をあるがままに受け入れるこの視点や能力は、自分自身が自由であることを意味し、真の関係をもたらします。
例えばパーティー会場で、大富豪は、同じくらいの富豪か、それより少し上の階級の人を探し、その人達としか話しません。
博学な人に出会うと、その人が学者だというだけで、居心地が悪いかもしれませんし、大富豪や自尊心の高い人を避け、逆にそういう人を探すかもしれません。
友人とは、分かち合うこと、打ち解けることが出来る人ですから、注意深い友人選びは、大切なことではありますが、ここでは賢者[ニャーナ・トゥルプタ・アートマー]の話をしています。
自由な人である賢者は、サマ・ブッディを持ちますから、職業や、地位、星の配置、昔はどんな人で、今は何をしているとか、サードゥかパーピーかは気にせず、他者をこういう人だと決めつけません。
一方、人はジャッジされることを恐れ、他人がどう思うかを気にし、人前で話をすることを恥ずかしがります。
話し慣れている人でさえ怖気づいたりするのです。
「自分自身のことを、どう見ているか?」
そこに勘違いがあります。
人は、人生の多くの時間を、他者にどう思われているか?を考えることに費やし、大きく見せたり、取るに足る人になろうとしますが、考えるべきことは、自分自身の理解と修正です。
他者にどう思われているかを気にすることは、人類全体の問題です。
実際、他者に支配されているのではなく、他者にどう思われているかという恐れ(自分の考え)によって支配されています。
様々な問題を抱える個人は、他者のことなど考える時間など無いのに、私達は、人が自分のことを考えていると思います。
また社会は、誰も支配などしていないのに、社会が自分を支配していると思います。
自分を支配している要因は、社会がどう思うかについての自分自身の考えなのです。
一方、賢者は、主観的な態度で関わることなく、誰に対してもジャッジメンタルを下しません。
一般人はジャッジメンタルを下すけど、賢者はジャッジメンタルを下さない人、という話ではなく、ジャッジメンタルは、終始「自分自身をどう見ているか?」です。
自分自身に対しジャッジメンタルを下せば、自分以外にもジャッジメンタルを下します。
ですから、自分自身や他者に対してジャッジメンタルを下しませんように。