千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章09番目の詩④

सुहृन्मित्रार्युदासीनमध्यस्थद्वेष्यबन्धुषु ।

suhṛnmitrāryudāsīnamadhyasthadveṣyabandhuṣu |

साधुष्वपि च पापेषु समबुद्धिर्विशिष्यते ॥६.९॥

sādhuṣvapi ca pāpeṣu samabuddhirviśiṣyate ||6.9||

利益をもたらしてくれる人、友人、敵、知人、仲裁者、嫌われるに値する人、親戚、

サードゥや罪人に対し、見方が全く変わらないその人は、最も優れた人です。

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賢者は智恵を得る前に、ジャッジメンタルを下さない練習をしてきたので、それは自然なことです。

ジャッジメンタルを下さないことは、価値があり、ここが意志の使い所です。

資格や、技術、肉体、年齢や体重、肌の色や髪など、自分の考えの基準で、自分をジャッジメンタルを下さないようにします。

自分自身にジャッジメンタルを下すなら、他者にも下すことは避けられません。

この間違った見方は、訂正すべきことで、一朝一夕にはいきません。

自分のことをどう思っているかにはじまり、世界の見方も全て間違って認識していますから、完全な改革が必要です。

私達は自分の都合の良いように、物事を順序立て、正当化します。

これらはジャッジメンタルです。

自分自身の理解とは、ジャッジメンタルを下すことではなく、何なのか知ることです。

知ることはNo choiceで、自分自身の本質をあるがまま理解することですから、全体のヴィジョン(この教え)は、条件付けを取り除くプログラムです。

「こうして私は成功してきた」などと、自分にかけてきた催眠を解くプロセスにより、「わたしは、限りのない、満たされたもの[アハム プールナハ、サット・チット・アーナンダ・アートマー]」という認識に至ります。

ニャーナ・ヴィッニャーナ・トゥルプタ・アートマー

つまりサマ・ブッディは、ジャッジメンタルを下さず、ヨーギーの中でも最も優れた[ヴィシッシャテー]人です。

ア・ニャーニーには、洞察や理解にレベルの差がありますが、賢者にはありません。

賢者と、そうでない人を物差しで図るような事はできませんが、サマ・ブッディという言葉は、ニャーナ・ヴッジニャーナ・トゥルプタ・アートマーを描写するための基準としてクリシュナが使うので、ある比較は可能です。

サマ・ブッディである人は、全ての人に対し、最も優れている人[ヴィシッシャテー]なのです。

この詩と前の詩で、「アートマーがブラフマン」という知識を持つ人[ブランマ・ニシュタ]が述べられ、この素晴らしい結果をどの様に実らせるのか?が、第6章の主題です。

安全でないことからの自由、モークシャを得る為に、カルマ・ヨーガとデャーナ・ヨーガという側面の手段[サーダナ]に従います。

カルマ・ヨーガは、行いに関する態度ということを見てきましたが、次の詩からは、瞑想[デャーナ・ヨーガ]が示されます。