千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章19番目の詩

तस्मादसक्तः सततं कार्यं कर्म समाचर ।

tasmādasaktaḥ satataṃ kāryaṃ karma samācara |

असक्तो ह्याचरन्कर्म परमप्नोति पूरुषः ॥३.१९॥

asakto hyācarankarma paramapnoti pūruṣaḥ ||3.19||

ですから執着無く、いつもすべき行いをしなさい。

なぜなら執着無く行いをし、人は究極のゴールを得ますから。

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賢者は、成すべき行い[カルマ]は無く、行いをする事やしない事で、得る事も失う事も無いと、クリシュナは言いました。

アルジュナは「ですからアルジュナよ。何もしなくてよい」というクリシュナの言葉を期待していたので、クリシュナは行いについて話したのです。

「行うこと、行いをしないことでも知識は得ることは出来ない」「知識を探究しなさい」とクリシュナは既に解説し終えましたが、「すべき事をするのです」とも言いました。

このまるで矛盾している様なこの発言は、既に知識があるなら、すべき事は何もないという事実に基づくもので、知識が起こるまでは成されねばならないことをします。

クリシュナはこの詩で「ヨーガではないカルマは人を束縛すること」をもアルジュナに思い出させます。

執着の無い行いとは、行いの結果[カルマ・パラ]に対する考え方です。

空を飛ぶコンドルは、優雅に飛んでいるだけに見えますが、実際コンドルは餌を取り損なわない様常に目を光らせています。

「行いは、何らかの結果をもたらすべき」という結果主義の考えはコンドルの様です。

この考え方が、俗世界[プラヴルッティ・マールガ]で普及しているので「ただ行いを捧げるなんて理解し難い」と人々は思います。

しかしヨーギーは、好き嫌いが選択の基準ではなく、ダルマとアダルマが選択の基準です。

クリシュナは「どうか、しなければならない事をしなさい」とアルジュナに言いました。

カルマ・ヨーガのみが、アンタッ・カラナ・シュッディを得れますし、それが知識へと確かに導き、アートマーに喜ぶことができるのです。

知識だけがあり、知識は行いを必要としません。

行いをしながら知識を探究する生き方、サンニャーサーの生き方、どちらを選んでも結末は同じで、どちらの生き方が適切なのかが大事なことなのです。

サンニャーサーの生き方を選んでも、それが相応しくなければ実りが無いので、より適切な方を選びます。

カルマ・ヨーガは、まさにアルジュナに相応しいものなので、クリシュナはカルマ・ヨーガを選び、知識を探究するようにアルジュナに言います。

クリシュナがギーター18章を教え終えた時、アルジュナははじめて「しなければならないことを、私はします」と言い、戦い終えました。

戦争の勝利までに、アルジュナの息子[アビマンニュ]、ドラウパディの5人の息子達、ビーシュマ、ドローナ、ドゥルヨーダナ、彼の兄弟全員、カルナ、更にたくさんの命が失われ、アルジュナはとても悲しみました。

ですから再度アルジュナは教えを求め、クリシュナは更に素晴らしい教えを与え、次のギーターという意味のウッタラ・ギーターと呼ばれるギーターがあります。

アルジュナは、この知識を得なければならないことを知りました。

置かれている状況は、戦場の真っ只中で、アルジュナは戦わなければならなかったので、ただ聞くだけで、教えを熟考する為の時間がありませんでした。

ですから、カルマをし続け、その過程の中で知識を得なければならないとクリシュナは話したのです。

「行いの結果に関する、好き嫌いからの自由になり、行いをしなければならない」とシャーストラは言います。

その様に行いをする時、考えが調います。

考えが整理されている時にだけ、知識が定着することができますし、知識を通して人はモークシャを得ます。

「ヨーガはモークシャを直接生み出さないことなど無い」と思うなら理解していないと、首尾一貫してシャンカラの解説[バーシャ]で繰り返されます。

まずカルマ・ヨーガによって考えが準備され、知識が定着する秩序をクリシュナはこの詩で述べました。