千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章10番目の詩②

योगी युञ्जीत सततमात्मानं रहसि स्थितः ।

yogī yuñjīta satatamātmānaṃ rahasi sthitaḥ |

एकाकी यतचित्तात्मा निराशीरपरिग्रहः ॥६.१०॥

ekākī yatacittātmā nirāśīraparigrahaḥ ||6.10||

瞑想する人[ヨーギー]は、静かな場所で1人過ごし、体と考えは寛ぎ

執着や所有願望から自由で、常に考えを(瞑想の対象に)繋ぎますように。

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デャーナ・ヨーギーは、ヤタ・チッタ・アートマーとして描写されます。

チッタは記憶ですが、ここでは考え[アンタッ・カラナ]のことを指し、しかし過去の記憶[チッタ]も集中を妨げますので、この詩ではチッタと言われます。

考えは、瞑想中も働き続け、耳が音を捉えるなら音を聞きます。

目を閉じるなど、感覚器官をできる限り引き下げると、瞑想の対象に集中出来るようになります。

アートマーは肉体[デーハ]の意味で、ヤタは様々な問題が上手く対処され、体と考えを自分の支配下に置き、体は完全にリラックスし考えが集中します。

ヨーギーも、この資質もヤタ・チッタ・アートマーという意味になります。

妨げがあっても体はリラックスし、記憶がポップアップしても、考えは瞑想の対象に戻っていきます。

瞑想中、座るためには切望から自由な人[ニラーシーヒ]でなれければならず、内側のプレッシャーなどありません。

内側のプレッシャーとは切望で、ニラーシーヒは、あらゆる切望が無い人です。

切望があれば、静かに座ること以前に、目を閉じ続けることさえ出来ず、イライラするかもしれません。

目を閉じるだけで、全ての切望が湧き出すのです。

目を開ければ考えは、見えるものに注意をひかれ、目を閉じれば、全世界はわたしの中にあるので、様々な切望が妨げとなり座ることさえ出来ません。

ところが、比較的自分に満足し、朗らかなニラーシーヒは執着を離れ、切望から自由です。

瞑想する人は、カルマ・ヨーガの生活をしてきた人で、シャンカラのサンニャーサの定義に従うサンニャーシーの特性がある人です。