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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章21番目の詩

यद्यदाचरति श्रेष्ठस्तत्तदेवेतरो जनः ।

yadyadācarati śreṣṭhastattadevetaro janaḥ |

स यत्प्रमाणं कुरुते लोकस्तदनुवर्तते ॥३.२१॥

sa yatpramāṇaṃ kurute lokastadanuvartate ||3.21||

優れた人が何であれ行うことだけが、他の人達がすることです

その人が適切に始めたことを、世界の人達が後を追います[21]

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王様、 王子、判事、指揮官などのリーダー、社会で重要だと考えられている人、家庭内では父親が、模範を示す役割ですからシュレーシュタです。

日常で出くわす様々な状況に、どの様に行動し、どの様に反応するかという、人の振る舞い[アーチャラティ]を述べています。

尊敬される人は、生きる道標を皆に示し、尊敬される人が基準と考えていることに、人々は従います。

この詩のプラマーナという言葉は、ダルマ・アダルマを計る道具を意味します。

プラマーナは、知識の道具という意味でした。

王様がヴェーダをプラマーナと考えれば、国は同じように考えます。

プラマーナとしてヴェーダを考えなかったブッディストの僧達の影響下に置かれたアショカ王などの王の時代、多くの人々もまたブッディズムに変わりました。

ヴェーダから新しい宗教へと人々を改宗させることは、当時インドではとても簡単で、すべき事は、王様を改宗することだけでした。

王様のプラマーナは何であれ、国民にとってプラマーナです。

一般人は、宗教的な事柄を調べる時間も気質も無く、彼らは誰かに従う傾向にありますから、リーダーが特別な動向を示せば、簡単に運びさられます。

例えば毛沢東は、目的を成し遂げたいなら「赤本」を毎日読むべきだと言い、彼は聖典を排除しました。

インドも、ある1つの特別な詩や章を毎日読むことによって、あなたは、あれこれ得るでしょうと言われました。

違いは、毛沢東の「赤本」は聖典の権威はなく、それは世間的な権威[ラウキカ・プラマーナ]でした。

ヴェーダ、つまりヴァイディカ・プラマーナではありません。

どの様な制度や本も、易経やタロットカードも、世界の全ての問題を解決するであろうと考えるならプラマー ナになり得ます。

同様に、リーダーがすることを誰もがフォローしますから、それが「赤本」だとしても、皆プラマーナだと考えるのです。

どの様な革命も、その背後には本があります。

ヒットラーを支持する人々が「Mein Kampf わが闘争」という本を読み、鼓舞されました。

「アーリア民族の規則、アーリア民族の優秀性など、ヒットラーのイデオロギー(観念の形)の全てが書かれて、彼らにとっては、それがプラマーナでした。

ラウキカも、ヴァイディカも、どんなプラマーナも、シュレーシュタがプラマーナとみなすなら、人々はそれに従います。

同様に「ヴェーダはプラマーナではない」と王様が言うなら、人々はそれを放棄します。

王様がプラマーナと言うなら、人々はそれを探究しますから、クリシュナは「好き嫌いではなく、アルジュナはリーダーで、彼が立ち去るなら、皆もそうする」と言いました。

クリシュナが、アルジュナに去るよう言い、馬車でリシケシに行ってたなら、全兵士達も、方向を変えリシケシに向かったでしょう。

アルジュナが何らかの布を纏えば、皆が真似し、ルッドラ・アクシャのマーラーを着ければ、皆がそれを身に着けたでしょう。

アルジュナのサンカルパは、大きな影響をもたらしますから、置かれている状況を慎重に把握すべきでした。

アルジュナが義務を果たすことで、何も失わない事も、クリシュナははっきりさせました。

アルジュナの行いは、彼のプラーラブダに基づき、アルジュナがニャーニーであったとしても、何も問題はありません。

アルジュナがア・ニャーニーなら、行いがアンタッ・カラナ・シュッディになり得るというのが、ここでクリシュナの示す要点です。

クリシュナは、行いを演じることに関して、彼自身を示しながら、話を続けました。