千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章14番目の詩③

पशान्तात्मा विगतभीर्ब्रह्मचारिव्रते स्थितः ।

paśāntātmā vigatabhīrbrahmacārivrate sthitaḥ |

मनः संयम्य मच्चित्तो युक्त आसीत मत्परः ॥६.१४॥

manaḥ saṃyamya maccitto yukta āsīta matparaḥ ||6.14||

考えが静かで、恐れなく、ブランマチャーリーの生活に専心に確立したヨーギーが

考えを統括し究極のゴールである私を思い座りますように

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クリシュナは、神[パラメーシュワラ]の意味で、一人称単数「私」という言葉を使います。

歴史上のクリシュナが、神かどうかが、重要なのではありません。

クリシュナが、イーシュワラとして話しているので、私達は、神であるクリシュナについて話しています。

クリシュナという言葉もそれだけで、パラメーシュワラを指していて、クリシュナが、一人称単数[アハン]を使う時は、いつもパラメーシュワラであると理解されるべきです。

ダンスを踊り、美しいフルートを奏でたクリシュナという人が本当にいたのか?は問題ではなく、こうした話は、全て、アヴァターラとしてヤムナー川のほとりを歩く歴史上の人物を、親しみを持てるよう考慮されたお話です。

賢者なら誰でも、アハムという言葉を同じように使います。

「私は、マヌであった。」「私は太陽神である。」「私は全てである。」

シャーストラの中に、実際この様な言葉があり、賢者ならこの様に言えます。

過去、現在、未来も全て、たった一人の人[プルシャ]、つまり私だけで、このプルシャから何1つ離れていません。

プルシャを自分自身と知る人、「私はあれです[ソーハム]」と知る人は、死すべき運命から完全に自由で、その人がアートマー。

唯一のプルシャがいて、それこそがアートマーです。

プルシャはどこかの場所に限らず、全てに遍在し、それは知性[ブッディ]で認識します。

「私の心の中にあるものこそアートマー」とは、クリシュナだけではなく、誰もが言うことができます。

クリシュナは、自分自身を世界の源の意味としてハイライトするのか、純粋なパラマートマーをハイライトするかのどちらかですが、どちらの場合も、同じ1つのものというのが重要なことです。

パラメーシュワラという言葉は、ここでは神[イーシュワラ]を意味するサグナ・ブランマとしてみなすこともできます。

それはスルシュティ・カルター[創造者]であり、創造物を維持する者[スティティ・カルター]であり、創造物を彼自身に戻してしまう人[ラヤ・カルター]です。

この様に、パラメーシュワラはカルターで、3つの役割を同時に行い、3つの行い全てが、同時に進行し続けます。

この瞬間も物が生まれ、それが生まれる時、それは在り、それが在る時、それは去ります。

これは循環し、維持/創造/消滅なのか?

消滅/維持/創造なのか?

創造/維持/消滅なのか?

3つは同時に起こり、始まりも、終わりもありません。

時間そのものがミッテャーで、全創造物は時間の中にあるのでミッテャーと呼ばれます。

この今の瞬間、この100万分の1秒、1兆分の1秒は、生まれて、生まれる時消えて、消えて生まれます。

つまり、生まれることがありません。

全てのものが時間の中にあり、それらはミッテャーなのです。

この時間の本性は、イーシュワラ、別の名前で言うと偉大な手品師[マーヤーヴィー]のトリックに他ならず、創造、維持、消滅の行い手です。

パラメーシュワラに考えを没頭させることは、サグナ・ブラフマ・デャーナと呼ばれます。

あらゆる思いやり、あらゆる慈悲、あらゆるアーナンダ、もしくは、あらゆる物の創造者、維持者、破壊者であるパラメーシュワラの美徳に瞑想します。

どの美徳も、絶対的な意味に見直して、それを瞑想することができますし、シンプルな祈りの形もあります。

その神に、私の尊敬の意を捧げます。[オーム パラメーシュワラーヤ ナマハ]