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ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章24番目の詩

उत्सीदेयुरिमे लोका न कुर्यां कर्म चेदहम् ।

utsīdeyurime lokā na kuryāṃ karma cedaham |

सङ्करस्य च कर्ता स्याम् उपहन्यामिमाः प्रजाः ॥३.२४॥

saṅkarasya ca kartā syām upahanyāmimāḥ prajāḥ ||3.24||

もし私が行いをしなければ、これらの人々は滅びてしまうでしょう

社会の混乱となり、これらの生き物達を私が破壊してしまうでしょう[24]

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「行いをしないクリシュナを、誰かが真似てもいいのでは?」と、誰かが言うかもしれませんが、問題はその過程で、彼らは、自分自身を破壊するであろうということです。

無数の好き嫌いを持つ人々が、それらを満たす行いをしないなら、 識別能力[ヴィヴェーカ]の無い人達は、正気では無くなってしまいます。

それが、ここでの破壊の意味で、人間にとっての破壊とは、正気でなくなることなのです。

普通の人も、正気でない人も、誰もが無知と勘違いから生まれています。

経験できるもの、客観性と主観性の間は小さな違いで、誰の中にも狂気の傾向があり、無知と勘違いが狂気へと導き得ます。

正気と狂気を分ける線は、実際とても希薄な線なのです。

常にある種の主観性が含まれ、何であれそのままの姿をそのままに、客観的に見ませんから、主観的な投影と、客観的な理解の間を見極めるのは難しいのです。

正気の人は、何らかの客観性があり、狂気の人は、より主観性を持つということです。

狂気の人も、パンは食べれて、岩は食べないこと位は知る様に、何らかの客観性を持ちますが、その様な人が持つ問題とは、迫害されてないのに、迫害されていると感じるかもしれないということです。

何らかの客観性はあっても、多くの主観性がある人を、狂気の人と呼びます。

客観的な人ですら、ある程度の主観性がありますが、客観性がより優っているので普通だと言われます。

その人でさえ、お金が安心をもたらすと期待しますが、 それは、本当に客観的な期待であるとは言えません。

主観性のもう1つの兆候は、自身の恐れを投影し、人々をあるがままに見ないことです。

ですから、普通の人も、狂気の人も違いは、然程大きくないのです。

狂気の人は、客観性に欠け主観が強く、正気の人は主観性より少し客観性が優り、狂気の人は、客観性に欠け主観が優る、ここで破壊という言葉で意味されることは、このようなことです。

ですから「もし私がカルマをしないなら、これらの人々は確実に、自分自身を破壊するでしょう」とクリシュが言いました。

普通、ローカーハは「世界」という意味ですが、この詩では「人々」を意味し、この言葉が適切に理解されなければ、翻訳で問題が起こり得ます。

クリシュナが、イーシュワラとしての能力を使わないなら、全ての世界は崩壊する、と言っているのではありません。

イーシュワラが働かなくなるなら問題などなく、皆がモークシャを得れます!

また「行いをしなければ、私は混乱を作り出す人となる」とクリシュナは言いました。

アルジュナは、この戦争をするなら、社会に混乱を作り出し罪を犯すから戦いたくないと思っていましたが、クリシュナが、ここで言わんとすることは、アルジュナが戦わなければ、人々もすべき事をせず、アルジュナが社会の混乱を作り出す、ということです。

人々は、自分自身のカルマをすることが、幸せなこだとは思えないかもしれませんが、カルマをしないことで、大きな、無気力の塊[タマス]が、完全に社会を覆い尽くします。

ギーター2章63番でクリシュナは、「人の知性が無くなってしまった時、人は破壊される」と言いました。

この破壊は物理的な破壊ではなく、知性の破壊[ブッディ・ナーシャ]で、何が真実で、何がそうでないかの識別する能力の破壊です。

人々が成さねばならない事をしないなら、ブッディ・ナーシャが起こり、つまり全理性が無くなり、人々はもはや人間ではなくなります。

こうして人は、いつも名誉ある人をお手本とするので、クリシュナがカルマをしないなら、彼が人の破壊の原因となると言われました。