千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

ヨガ 勉強会  個人レッスン・出張ヨガ 私について ブログ アクセス スケジュール・予約 お問い合わせ

【ギーター】第6章15番目の詩②

युञ्जन्नेवं सदात्मानं योगी नियतमानसः ।

yuñjannevaṃ sadātmānaṃ yogī niyatamānasaḥ |

शान्तिं निर्वाणपरमां मत्संस्थामधिगच्छति ॥६.१५॥

śāntiṃ nirvāṇaparamāṃ matsaṃsthāmadhigacchati ||6.15||

いつも、この様に考えを結びつけ、考えをしっかり統括している瞑想者は

私の中に解消し、究極の自由、平安を得ます。

-

3つ目のシャーンティが、人そのもの[スヴァルーパ]ですから、行ったり来たりせず、次元も変化も全く無いがゆえ、他のものと比べることも不可能です。

このシャーンティは、自分自身と同一ですから、クリシュナは、マット・アディーナーという意味のマット・サムスターとして、描写しました。

それは、いつもパラマートマーの中に得られるものです。

なぜなら、パラマートマーはどんな時も動かない、つまり不変[クータスタ]だからです。

何にも関わらず、何にも反していません。

対立があれば、摩擦があり、抵抗があり、それがア・シャーンティです。

シャーンティは、パラマートマーと同一が故、考えにも、世界にも、知識にも、無知にも対立していませんし、同時に全てを支えています。

この様に、瞑想者は自由、解放を得ます[マット・アディーナム シャーンティム アディガッチャティ]。

ニルヴァーナ・パラマー・シャーンティは、考えに頼ってはいませんが、精神状況に頼っているシャーンティは、いつも妨げられることになります。

ここで、アートマーはシャーンタと呼ばれます。

それは、シャーンタが、アートマーの本質を明らかにする描写[ラクシャナ]だからです。

このシャーンティは、青いポットの「青い」の様に、何か属性としてアートマーに付いている様なものではありません。

属性[ヴィシェーシャナ]は、同じ種類に属する他のものと区別しますから、全てのポットが青いなら「青い」という言葉を使う必要はありません。

属性は知覚され得ますが、アートマーがシャーンタであると言う時、アートマーに関するシャーンティは、知覚されるものではなく、その言葉自体がアートマーの本質を指しているのです。

ですからそれはラクシャナで、アートマーの属性ではありません。

全ての状態から自由で、全ての状態から自立し、そして、全ての状態の中に得られる意識[チャイタンニャ]であるアートマーの上に、苛立ちなどの考えの状態が、置かれています。

空間の上に風や火という属性が置かれるように。

アートマーが、ア・シャーンタであるという時、シャーンタのような言葉が、上乗せを否定します。

そして、その言葉は、アートマーの本質が、アートマーに上乗せされたもの[ア・シャーンティ]から独立しているものであることを明らかにしています。

ですから、このシャーンティは条件付きのシャーンティではなく、スヴァルーパ・シャーンティです。

どんな考えの形[ヴルッティ]も、アートマーから自由ではありませんが、アートマーは、どんなヴルッティからも自由です。

以前、バーディタ・アハンカーラという言葉の意味をみてきました。

自らの存在を否定したアハンカーラ[バーディタ・アハンカーラ]は、悟りを得たアハンカーラです。

「エゴの私はミッテャーですから、私はサッテャムとして限りの無い存在」です。

このアハンカーラは、考えの形[ヴルッティ]です。

ミッテャーの私ヴルッティが明かしているのは、サッテャムの私であり、これがアートマ・ニャーナを明かすヴルッティと呼ばれます。。

アートマ・ニャーナ は、聖典ヴェーダーンタというプラマーナが、整った考えに働くことで、起こるヴルッティです。

自分自身の知識[アートマ・ニャーナ]を明かすヴルッティです。

熟考瞑想を繰り返し、このヴルッティが働き、アートマ・ニャーナを明かす、これが繰り返えされ、熟考瞑想自体が自然と終わる時、識別され明かされたアートマーだけを残し、このヴルッティも去ります。

自分自身の知識明かすアハンカーラは、ヴルッティが起こる時も「アハム シャーンタハ」として、アートマーを理解するなら、シャーンタ・アートマーをヴルッティが妨げたりしません。

これが、ニルヴァーナ・パラマー・シャーンティが意味すること、つまり、純粋に知識の形、認識であるシャーンティです。

自分自身の知識[アートマー・ニャーナ]も、ヴルッティによって明かされる知識[ヴルッティ・ニャーナ]です。

自分自身をパラマートマーとして理解し、そしてパラマートマーのスヴァルーパ・シャーンティを理解
している人は、知識を得ているので、このシャーンティを得ていると言われます。

アシュターンガ・ヨーガという8つの側面を持つヨーガの観点からではなく、純粋に知識のみの観点から、そのような人をここでは、ヨーギーと呼びます。