युक्ताहारविहारस्य युक्तचेष्टस्य कर्मसु ।
yuktāhāravihārasya yuktaceṣṭasya karmasu |
युक्तस्वप्नावबोधस्य योगो भवति दुःखहा ॥६.१७॥
yuktasvapnāvabodhasya yogo bhavati duḥkhahā ||6.17||
食事や、その他の活動を思慮深く適切に行う人
すべきこと、睡眠と目覚めの時間に関して適切に努力をする人
(その人にとって)瞑想は悲しみを破壊する道具となります
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この詩は、瞑想に必要となる資質について述べます。
活動をする上で、適切・適度であることを意味する言葉が、ユクタ。
食事や、他の活動が、適切、適度である人が、ユクタ・アーハーラ・ヴィハーラ。
活動が、適切、適度である人が、ユクタ・チェーシュタ。
睡眠と目覚めの時間が、適切、適度に配分されている人が、ユクタ・スヴァプナ・アヴァボーダです。
この人は、教養と自制のある生活をし、生活そのものがヨーガ、そのヨーガがサムサーラの悲しみを破壊します[ヨーゴー バヴァティ ドゥッカハー]。
シャンカラの解説では「アーフリヤテー イティ アーハーラハ」と言われます。
食事[アーハーラ]・他の活動[ヴィハーラ]が、適切で、活動を均整のとれた感覚で行える人、行いに関する強迫観念や、妄想を制御できる様な人が、ユクタ・アーハーラ・ヴィハーラです。
例えば、多くの時間を食事の計画に費やしたり、食事[アーハーラ]が、生きがいにさえなりますし、運動が生きがいになる人もいて、毎日、何時間もエアロビクスをし、ジャンクフードばかり食べて、それを体から出すことに、取り付かれているかもしれません。
エアロビクスが、生きがい、信仰になり、運動し、疲れきって、結局食べて寝てを毎日繰り返す様に、人生が運動することだけに費やされるべきでもありません。
均整のとれた感覚がなければ、アーハーラも、ヴィハーラも、虜にしてしまうので、クリシュナは、どんな活動もユクタでなければならないと言います。
食事を適切に摂ることがスピリチュアル、と考える人もいて、何を食べるか、どれだけ食べるかが強迫観念になりえますが、適切に食べることは、健康の為で、それ以上ではありません。
適切な食習慣に従い、毎日、運動したとて、泥棒や、鬼の様な人は、残虐な行いを遂行したり、罪を犯しますから、全てにおいて均整のとれた感覚を持つユクタは、ここで重要な言葉なのです。
ユクタ・チェーシュタは、すべき事が沢山あったとしても、あらゆる行いに関して[カルマス]、苛々したりせず、時間を無駄にせず、一つ一つ注意深く、思慮深く、効率よく行います。
チェーシュタとは、手足の動きも含めて、あらゆる動きのことを意味しますから、ユクタ・チェーシュタは、様々な活動において、手足の動きに無駄がない人なのです。
一度に多くのことをしても、結果的には、何も出来ていません。
何かしたいと思っていたのに、急に何か他のことを思い出し、今していることを止めて、他のことをはじめ、また別のことを思い出し、手を止め、また次のことをする人は、アユクタ・チェーシュタです。
手の動きと向き合う瞑想をする、禅師の暮らしまでの必要はなく、大事なことは、全ての活動の中に、バランス感覚が必要であり、捉われないことです。
強迫観念からは、何も得られませんが、していることに注意を向けていることで、目覚めた(注意深い)感覚を得ることが出来ます。
ユクタという言葉は、していることに注意を向け、なすべきことをする、ということです。
知識を得ることを可能にする、内側のゆとりがそこにあるのです。