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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章18番目の詩

यदा विनियतं चित्तमात्मन्येवावतिष्ठते ।

yadā viniyataṃ cittamātmanyevāvatiṣṭhate |

निःस्पृहः सर्वकामेभ्यो युक्त इत्युच्यते तदा ॥६.१८॥

niḥspṛhaḥ sarvakāmebhyo yukta ityucyate tadā ||6.18||

考えが整理され落ち着きを得て、自分だけにとどまる時

(欲望の)全ての対象物から自由な人がある時、(その人)は達成された人と言われます

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ここでシャンカラは、考え[チッタ]が、妨げられず、熟考の対象のみに留まること[エーカーグラター]を、ヴィニヤタと定義します。

その様な考えは、熟考の対象と、瞑想者、熟考者の間に隔たりがなく、同じ1つのものです。

教えの中での規律ある生き方を通して、考えはそれ自身でそれ自身の中に、ある程度の自制、思慮深かさ、整った落ち着きを得ます。

そして、この考えが、アートマーのみに留まります[タスミン アートマニ エーヴァ アヴァティシュタテー]。

つまり、考えとアートマーの間に隔たりはありません。

ここで述べられた人は、熟考する人も、熟考されるものもアートマーで、熟考されるべきアートマーなどないのです。

以前は「まるで」熟考していましたが、今、自己が自己のみに留まりますから、「まるで」熟考の必要もないのです。

その人にとって、推測も、間違った観念も無いので、更に理解する為に、熟考する必要がありません。

自分の外の、様々な物への関心や不安を全て手放し、アートマーに気づいています。

つまり、考えがいつも、アートマーに留まり、故にアートマーから決して離れていません。

このアートマーの知識を明確に得た人は、どんな欲望の対象の切望からも自由です。

この自由は、知識と別々に得なければならないものではなく、知識そのものという自然な状態。

欲望の全ての対象物から自由な人ニッスプルハハ サルヴァ・カーメービャハ]です。

カーマは、欲望そのものと、欲望の対象物ですが、この詩では、欲望の対象物のことです。

これらの欲望の対象は、今達成できるもの、見えるもの[ドリシュタ]と、プンニャの様に見えないもの[ア・ドリシュタ]があります。

プンニャが、富や、権力、居心地の良い状況など、様々な結末を達成する為の、力や権利を与えます。

それらの結末は、今は見えないのでア・ドリシュタと呼ばれます。

火の儀式から得たい物は、火ではなく、儀式をすることで、プンニャに恵まれ、そのプンニャが、欲しいものを得る為の妨げを、全て取り除きます。

これが、ア・ドリシュタと呼ばれるもので、ドリシュタと同様に、ア・ドリシュタを望む欲望[カーマ]があるのです。

この詩で述べられた人は、ドリシュタとア・ドリシュタ両方の切望から自由な人ですから、熟考が成功した人と呼ばれます[ユクタハ イティ ウッチャテー]。

対象物への切望は、自分自身を知らないことに基づきますから、この自己の知識が留まる時、その人は、満たされ、幸せです。

その人自身が、安全で、完全ですから、アートマーが、どんな改善も必要ではないことを知っていて、足りてないというセンスがありません。

アートマーの本質は、完全で、満たされていて、全体[プールナ]ですから、改善する余地もなく、何の切望もありません。

その人に願望があるにしても、全てはシンプルな願望(知りたいという願望)で、それは満たされます。

実際に、願うという素晴らしい能力、願望を特権として授かっています。

その様な人の欲望は、足りてないという感覚から生まれるものではなく、満たされた感覚から生まれます。

一方、その自分自身の知識を持たない[ア・ニャーニー]は、「私」に欠けた感覚があります。

例えば、体は、当然、限界があり、足りていないと言えるかもしれませんが、その足りていないセンスは、「私」を一緒くたにし、体を自分と同一視しています。

「体が足りていない」が問題ではなく、「私が足りていない」が問題で、それは、私の本質[スヴァルーパ]を認識していないことから生まれる問題です。

全ての願望は、まさに「私」を一緒くたにしてしまう、足りてないというセンスから起こります。

それを満たすことで、自分の中に何らかの安全や、満足を発見できるという、こんがらがった性質の願望です。

ですから、願望を満たすことが、その人の人生の主要な目的になり、そして、その願望は、うさぎの様に、どんどん繁殖する特性があることが分かると、それを手放し、浮浪者になるか、気が変になってしまうかのどちらかです。

ここで大事なことは、足りていないというセンスからくる欲望は、際限がないということ、そして、この事実を見抜き、探求が始まります。

私は、自分自身を探しています。

自分自身に根付いた足りていないセンスから自由になりたい、これこそが私が求めていることです。

私の本質が足りていないというセンスで行き詰まるなら、それを取り除くことは、決してできませんが、時々、この足りていないセンスから自由な自分を見ます。

目が美しいものを見た時は、足りてないセンスから自由である自分に気がつきます。

笑う時はいつでも、全てが天国です。

自分の内側に天国があるのです。

足りてないというセンスの自分と、そうではない自分、2つの自分があるので、最もな疑いが起こります。

私は、自分自身を取り違えているかもしれない。

私の結論が間違っていると考え出し、この疑いが、探求の始まりを示すものです。

この詩で議論されている人は、自分自身を知りました。

その探求には、知識が起こる為の考えの準備に必要な、さまざまな鍛錬が伴います。

探求を終えた人の考えには、もはや、疑いはなく、完全にアートマーに目覚めています。

推測や、曖昧さもなく、その人は、自然に全ての切望や執着から自由です。