
मयि सर्वाणि कर्माणि सन्न्यस्याध्यात्मचेतसा ।
mayi sarvāṇi karmāṇi sannyasyādhyātmacetasā |
निराशीर्निर्ममो भूत्वा युध्यस्व विगतज्वरः ॥३.३०॥
nirāśīrnirmamo bhūtvā yudhyasva vigatajvaraḥ ||3.30||
識別のある考えを持って、私の中に全ての行いを手放して、未来に関しての期待や、「私の物」というあらゆる感覚を取り除いて、どのような怒りも欲求不満もなく、戦いなさい。
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クリシュナの「戦え」という言葉は、単なる命令や助言ではなく、真理に基づいた「教え」です。
これはアルジュナにとっての戦い、つまりすべき義務[kartavyam karma]を指すだけでなく、ベッドから起き上がることかはじまり、現代人が日々直面する困難や日常の葛藤すべてに当てはまります。
「全ての行いを手放して戦え」という一見矛盾した指示が重要です。
通常、すべてを手放すとは、知識の探求のために俗世を離れるライフスタイルを指しますが、ここでは「戦い(行い)」と結びつけられています。
ここでの「手放す」は、物理的に行いをやめることではなく、「結果への執着や自分が行っているというエゴを捨て去る」ことを意味します。
他のいかなる行いにも惑わされず、目の前の「なすべき義務(戦い)」に全向き合うことの重要性を教えています。
◎隠退とは実際何を意味するのでしょう?
「私(神)[mayi]の中に手放す」という概念が大切です。
ここでの「手放す[sannyāsa]」とは、行いを物理的にやめることではなく、「すべての行為をイーシュワラに捧げる」というカルマ・ヨーガの態度です。
「戦え」という言葉は、文字通りの戦争だけを指すのではありません。
「今、自分が置かれている状況において、なすべき義務を行いなさい」という意味です。
王の召使が私情を挟まず任務を果たすように、自分の好き嫌いを超えて、与えられた役割をイーシュワラへの献身として遂行することを説いています。
「すべきことが、したいことになる」には、自分自身についての正しい理解[adhyātma-cetas]」と「識別する知性[viveka-buddhi]」が必要です。
カルマヨーギーは、「私は行い手ではあるが、神のためにこの義務を果たす」という態度で行いをします。
一方で、幻惑された人[vimūḍha-ātmā]は、「自分の利益のためにこれをする」と考え、都合が悪ければダルマに目をつぶる人です。
◎あなたが創造しなかった状況にあなたは置かれています
「将来こうなりたい」「こうなってほしい」という壮大な計画や野心[āśā]に囚われすぎると、今すべきことがおろそかになったり、結果のためにアダルマな手段を選んだりしてしまいます。
カルマヨーギーは、未来の大望に邪魔されることなく、現在の義務に集中します[nirāśīḥ]。
「これは私の仕事だ」「これは私の得にならないから彼の仕事だ」というエゴ[mamatva]は、精神的な成熟を妨げる最大の障害です。
状況が自分にその役割を求めているのであれば、「自分の得か損か」という境界線を引かずに、その行いを受け入れます。
「私のもの」という観念を放棄します[nirmama]。
最後に、不平不満・怒りからの自由[vigata-jvara]とは、「神はなぜ私をこんな過酷な状況に置いたのか」という不満や「もっと違う状況なら頑張れるのに」といった愚痴[jvara]を完全に手放した状態です。
クリシュナはアルジュナに、「不満を漏らさず、ご機嫌に戦いなさい」と言いました。
