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ギーターヨーガ

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【ギーター】第6章21番目の詩②

सुखमात्यन्तिकं यत्तद् बुद्धिग्राह्यमतीन्द्रियम् ।

sukhamātyantikaṃ yattad buddhigrāhyamatīndriyam |

वेत्ति यत्र न चैवायं स्थितश्चलति तत्त्वतः ॥६.२१॥

vetti yatra na caivāyaṃ sthitaścalati tattvataḥ ||6.21||

そして、知性によって知られ、感覚器官を超えたこの絶対的な喜びを認識し

そこに根ざしているため、自分自身の真実から決して離れません

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クリシュナがこの詩で述べた絶対的なスカ[アーテャンティカ・スカ]です。

このスカも、知性によって認識され[ブッディ・グラーヒャ]、感覚を超えたもの[アティーンドリヤ]です。

ヴィシャヤ・スカ、ヴィッデャー・スカ、ヨーガ・スカも、知性によって認識されますが、感覚を超えたものではありませんが、この絶対的スカは、ブッディ・グラーヒャであり、アティーンドリヤです。

内側や外側の状況に全く影響されません。

ヴィシャヤ・スカは外側の状況から、ヨーガ・スカは内側の状況から生まれますが、絶対的スカは、生まれるものでは無く、自分自身なのです。

人は、このスカが何から生まれ、どの様にもたらされるのかを知りたがりますが、このスカが「生まれる」ものであるという認識は、無知によるものです。

それは、サムサーリー、見極めていない人のアプローチです。

絶対的なスカは、ブッディ・グラーヒャで、同時にアティーンドリヤです。

瞑想する人、探求者が、アートマ・スヴァルーパを認識する時、その人は、真実、アートマーが絶対的幸せであるという真実[アーテャンティカム スカム]から反れたりしません。

この詩のタットヴァとは「~ness」という語尾で表されるように、ものごとの本質[スヴァルーパ]を意味します。

タットヴァは、真実、つまりアートマーのスヴァルーパであり、アーテャンティカ・スカ・スヴァルーパ、つまり、どんな限界からも自由です。

そこから、その人は、決して離れたりしないのです。

アシュターンガ・ヨーガのサマーディとを混同しないようにしなければなりません。

アシュターンガ・ヨーガは鍛錬で、この知識が起こるための考えの準備の役割があります。

アシュターンガ・ヨーガは、素晴らしい鍛錬ですが、それを理解しないと、アシュターンガ・ヨーガのサマーディと、自分自身の知識[アートマ・ニャーナ]の間に混乱します。

自分自身の知識が、究極のゴール、皆が求めている自由です。

アシュターンガ・ヨーガで語られるサマーディは、体験できる最も素晴らしい達成です。

没頭した状態であるニルヴィカルパ・サマーディでは、知る人、知られるもの、知る道具(感覚器官や考え)が、しばらく続く体験の中で1つになります。

サムサーラを取り除きませんが、確実にサムサーラでの最高のものです。

ニルヴィカルパ・サマーディは、熟睡の状態と反対のものです。

熟睡中も、知る人・知られるもの・知識は分かれていませんが、ニルヴィカルパ・サマーディでは考えは起きています。

違いは、考えが寝ている時はヴルッティがなく、ニルヴィカルパ・サマーディでは、考えが起きていて、ヴルッティがあります。

人生での最も素晴らしい体験が、ニルヴィカルパ・サマーディですから、それは人を魅惑します。

しかし、ニルヴィカルパ・サマーディには終わりがあり、過去の体験となります。

ニルヴィカルパ・サマーディを体験するなら、世界が変化するとか、ニルヴィカルパ・サマーディでアートマーを体験するとも言いますが、そこで 起こったことはただ、知る人・知られるもの・知識が1つになるだけです。

それは知性で認識されますし[ブッディ・グラーヒャ]、五感を超えたもの[アティーンドリア]ですが、この体験があ世界観を変えたりしません。

実際、とても悲しくなるかもしれません。

今までは、お金や、権力や、髪の毛や、人間関係、自分自身以外の物を失う悲しみがあったかもしれませんが、今はもっと大きな喪失感、つまり、自分を失うことを体験したのです。

それゆえ、サマーディを体験した人はある悲しみを持つかもしれません。

サマーディがなければ悲しみがあり、サマーディは続くものでは無いので、あったとしても悲しみがあるのです。

言えるのは「1時間半の間だけ永遠でした」ということです。

その間は、日常にはある、知る人、知られるもの、知識の間の区別がどこかに消え、時間もありません。

時間からも自由で、私は永遠でしたが、1時間半後、永遠ではなくなりました。

サマーディを2日間体験したからといって永遠になれたりしません。

この点では、それは、2日間意識不明で、その後意識が回復したことと何ら違いはないのです。

意識不明の間は、分かれてなく、その人も、何が起こっているのかも分かりませんから、ニルヴィカルパ・サマーディの中にいる時間の長さは、何の意味もないのです。

しかし、鍛錬としては、その体験に至るまでに、確固たる統制力を持ちますから、ニルヴィカルパ・サマーディは素晴らしいもの、人が得られる体験の極地とみなされているのです。

その人は、一定のサーットヴィカ・ヴルッティを持っていると言うことは構いませんが、ニルヴィカルパ・サマーディから出てきた後、世界が全く違ったように見えと言うことは、正しくありません。

どの様に世界を見るかは、純粋にリアリティを私がどう見るかなのです。

ニルヴィカルパ・サマーディという体験を解釈するためには、知識の道具[プラマーナ]がなければなりませんし、聖典を使わない限り、この体験を解釈することはできません。

あらゆる解釈は、完全に私の知識に頼っていて、それは私が使えるプラマーナに依存しています。

人が持つプラマーナ(知覚や、推理など)は、全て二元性を保つことで作用します。

二元性とは、行い手[カルター]と、行いの対象[カルマ]と、行いそのもの[クリヤー]と、行う道具[カラナ]などの二元性で、これらは総称してカーラカと呼ばれます。

二元性があることで、その人の様々な知識の道具[プラマーナ]が働きます。

知覚[プラッテャクシャ]や、推理[アヌマーナ]は、それらのカーラカを飲み込めたり(1つになったり)しません。

唯一、ヴェーダーンタの教え[アーガマ]だけが、それらを飲み込みます。

その教えによると、私は、知る人[プラマーター]ではないと言われます。

知る人、知識、そして知識の対象は、同じ1つのものであり、私は、まさにこれら3つのものの本質です。

アーガマは区別を解消するということが、まさにこの詩で言われていることです。

アートマーを知り、アートマーの真実から動かず、知る人・知られるもの・知識の区別が全くありません。

考えも、考えの対象物も私ですから、いつ、自分自身から出たりするのかということも問題にはなりません。

考えがあろうと、無かろうと、私は存在するので、自分自身から出ることなどありません。

世界と共にあろうが、なかろうが、それはいつも私なのです。

この詩の「タットヴァタハ ナ チャラティ」という表現は、知識[ニャーナ]を意味し、そのヨーガという言葉は一般的な意味で捉えられていません。

クリシュナが後に説明するように、ヨーガというより、むしろヴィヨーガです。

以前は無知の為に、悲しみとの関わり[ドゥッカ・サムヨーガ]があり、それを自分自身とすることが問題でした。

ヨーガとは、結ぶこと、関わることを意味し、ヴィヨーガとは、その関わりから離れることを意味します。

以前、その人は、体・考え・感覚の複合体を自分自身とみなしていたので、それは単純な繋がりではありませんでした。

そしてその人は、知識によって自分自身を悲しみから分離しました。

それは、アシュターンガ・ヨーガを意味するものではないのです。

様々な混乱を避けるために、クリシュナはまず、自分自身の真実から離れません[タットヴァタハ ナ チャラティ]と言い、この後の詩で、ヨーガという言葉を定義しました。