千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第3章31番目の詩①

ये मे मतमिदं नित्यम् अनुतिष्ठन्ति मानवाः ।

ye me matamidaṃ nityam anutiṣṭhanti mānavāḥ |

श्रद्धावन्तोऽनसूयन्तो मुच्यन्ते तेऽपि कर्मभिः ॥३.३१॥

śraddhāvanto'nasūyanto mucyante te'pi karmabhiḥ ||3.31||

アスーヤーなく(教え、先生の粗探しなどせず)、信仰に満ちた私のこの教えに絶えず従う人々は

カルマ・パラによって解放されます(カルマ・パラの束縛から解放を得ます)

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カルマを行う3つのタイプの人々がいます。

1つ目のタイプの人は、ジャナカ王の様に王様でありながら、 賢者[ニャーニー]でもある人です。

その人は、活動的であり続けることが、自分のブラーラブダですから、しない理由や、失う事も無く活動に従事し、これによって他者が恩恵を得ます。

教えることも行いですから、知識を得た後、教えにコミットする人達もこのタイプに含まれます。

サルヴァ・カルマ・サンニャーサは、文字通りの意味ではなく、知識においてのみ、全ての行いからの隠退です。

知識の意味において、その人は行い手ではないのです。

活動に従事していようと、いまいと、これを知ることが、全ての行いから完全に自由にします。

ですから、サンニャーシーかもしれませんし、あるいは世界で活躍しているかもしれません。

ライフスタイル・サンニャーシーとサンニャーシーでない人、2つのタイプの悟りを得た人々両方が、知識においてサルヴァ・カルマ・サンニャーサです。

ここでクリシュナは、ジャナカの様に、悟りを得ても、世界の利益の為にダルマを成し遂げ、人々が守られる様にカルマをし続けることが出来るとアルジュナに言いました。

「私を見なさい。私も行いをしています。成し遂げるべき事があるからではなく、私が行いをしなければ、他の人が私を真似しますし、それは人々にとって良い事では無い」

クリシュナは自分の使命をとてもよく知っていたのです。

カルマをする2つ目のタイプは、識別を持たないため、モークシャへの願望が無い人[ア・ヴィヴェーキー]です。

彼らは、好き嫌いを満たす目的で行いをするので、大抵の場合、手を抜き、最も楽な方法を選び、時には間違った道を選びます。

その様な人に対しては、ダルマに従い、自分の追及したいことを追求するようにさせることが祝福となります。

カルマをする3つ目のタイプの人は、ラーガ・ヴェーシャを持つムムクシュで、クリシュナは、彼らにカルマ・ヨーガを教えています。

その様な人は、サンニャーサかカルマ・ヨーガのどちらかを選ぶことができ、どちらも手放すこと[テャーガ]が含まれます。

サンニャーシーにとってのテャーガは、様々探究や、愛着までも含めてカルマ・テャーガを意味しますから、サンニャーシーになる前に、それら全てから成熟して卒業しなければなりません。

カルマ・ヨーギーは、あるがままのものへのコミットし[モークシャ]、行いの選択は、自分がしたいことではありません。

自分にとって、都合の良い事、好きなことだけを重要視するアプローチでは、「何で出来ないの?!」と、心が反応する傾向に向かいます。

世界は自分の思う通りには動きませんから、何が適切であるかが重要です。

適切なことを選択するには、好きや嫌いに関して犠牲を伴うこともあり、それを手放すことが出来ないなら、いつもするべき事をする[カルタッヴャ]のは不可能です。

自己都合[ラーガ・ドヴェーシャ]ではなく、適切かどうか[ダルマ・アダルマ]を重要視することは、カルマ・ヨーガの1つの側面です。

カルマ・ヨーギーは、帰依者[バクタ]ですから、イーシュワラへの気付き無しにカルマ・ヨーガはありません。

全ての行いを神の捧げる事は、偉大な奉納[ヤッニャ]です。

自分自身が置かれている状況で、すべき事は、イーシュワラに命じられた事として行います。

カルマは法則で、法則とはイーシュワラです。

人間には、行いの選択が与えられ、その選択は明らかな事に明け渡されます。

様々な状況は、それ自体が展開するカルマに他ならず、そもそも内在する明らかな行動方針[サーマンニャ・ダルマ]と、他者に期待される行動が、私のすべき事です。

過去の行いをもとに、この様に自分自身が、自分自身の身を置いたのですから、私は、行いの全ての結果をプラサーダとして受け入れます。

世界の創造主ブランマージの息子、人類の始祖たるマヌが述べたマヌ法典のもとにある人々、すなわち全人類[マーナヴァーハ]が、常に[ニッテャム]、クリシュナに述べられた宇宙観[メー マタム]、カルマ・ヨーガというサーダナに従います[アヌティシュタンティ]。

そして、シュラッダーを持ち[シュラッダーヴァンタハ]、神に、その宇宙観に対して、あるいはモークシャである自由を得るための手段として教えられたカルマ・ヨーガに対して、反感を持ちません[アナスーヤンタハ]。

先生に明かされるヴェーダの言葉を、真実として見ている事がシュラッダーの態度です。

理解できても、出来なくとも、誠意を持ちそれを受け入れます。

ギーター[スムルティ]もヴェーダで述べられる事と何1つ違いはありませんから、ギーターの言葉もシュラッダーを持ち受け入れます。

聖典が、矛盾しているように思えたとて、私の考え方に問題があると聖典を受け入れる時、シュラッダーが働き、探究に必要な考え方を与えてくれます。

自分が既に知っている事以上を、理解することなど出来ないからです。

過去の体験と、現在の理解をベースに、聖典の言葉の意味を理解しようとしますから、その言葉の背後にある意図が理解されることはなく、話された言葉の意味が滑ってしまいます。

意図された意味が、はっきりと伝えられる時も、聞き手が、それを理解するかは分かりません。

もし、メッセージが知っている事に似ているなら、既に持っている知識を使い、伝えられている事の理解を更に先に進めることが出来ますが、メッセージが全く異なったもの、今までの自分の持つ宇宙観に相反するなら、考えに驚きが起こるどころか、それは全く馬鹿げたことに聞こえるかもしれません。

ミッテャーを「間違い」「幻想」「妄想」と訳すなら、自分自身の体験と一致しません。

世界が幻想なら、私はどこに残るのでしょう?

私は世界にいますし、私がいるのですから、私と、私の発言両方が幻想になってしまいます。

話している人が幻想で、話された事も幻想なら、話す事も幻想です。

話す人と話される事が同じカテゴリーに属するなら、全てはサッテャです!

私は全てをサッテャと呼ぶことができますし、それを幻想と呼ぶことができます。

仏教において全てはミッテャーですが、全てがミッテャーという事は、全てがサッテャであるという意味です。

ですから幻想、妄想といった言葉は、サッテャとミッテャーの理解が無い限り、意図される事は全く伝わりません。

サッテャとミッテャーの意味を理解するために、ヴェーダーンタを学ぶのです。

言葉が、何を意図するのか分からなければ、「タット トヴァム アシ」は理解されません。

ここに、興味深いパラドックス(一般的に正しいとされることに反する事柄)があるのです。

既に「タット トヴァム アシ」を知るなら、勉強する必要はありませんが、「タット トヴァム アシ」を知らなければ、理解のために、シュラッダーと先生が必要です。

これはとても重要なことで、ヴェーダーンタを勉強する為にはシュラッダーが必要なのです。

ヴェーダーンタは、シュラッダーをベースにあるので、学術的な探究の主題としてではなく、プラマーナとして、シャーストラにシュラッダーがある時に限り価値を持ちます。

ヴェーダーンタがプラマーナである、と言う時、他のプラマーナで否定することは出来ませんから、それがプラマーナではないと証明する方法がありません。

1つのプラマーナが、別のプラマーナに否定される為には、別のプラマーナの働く範囲にそれがなくてはいけませんから、他のプラマーナが、証明も否定も出来ません。

例えば、青色の物を、黄色と見るなら、その間違いを見抜けるのは目だけです。

黄色ではなく、青と言えるのは、耳ではなく目ですから、青に見えない問題は、他のプラマーナが働く範囲ではありません。

プラマーナが、独立したプラマーナであると受け入れるなら、知識の道具そのものが、それを証明するために、プラマーナにチャンスを与えます。

プラマーナを使い果たしていないのに、批判すべきではありません。

シュラッダーを持ち、プラマーナを扱うなら、プラマーナは働きますから、働かせた時に限りプラマーナ・トヴァだと証明することができます。

「私は、個人[ジーヴァ]ではない」「個性とは単に観念である」「あなたはパラム ブランマです」とプラマーナは言います。

これらの提言は、鵜呑みにするものではなく、理解されるべき言葉です。

私たちは「ブランマンを理解していない」とは言ても、「私はブランマンではない」とは言えません。

メリットをもたらすプラマーナに異議を唱える根拠などなく、ブランマンである、と理解するまでプラマーナを使い果たします。