千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

ヨガ 勉強会  個人レッスン・出張ヨガ 私について ブログ アクセス スケジュール・予約 お問い合わせ

【ギーター】第6章23番目の詩②

तं विद्याद् दुःखसंयोगवियोगं योगसंज्ञितम् ।

taṃ vidyād duḥkhasaṃyogaviyogaṃ yogasaṃjñitam |

स निश्चयेन योक्तव्यो योगोऽनिर्विण्णचेतसा ॥६.२३॥

sa niścayena yoktavyo yogo’nirviṇṇacetasā ||6.23||

ヨーガと呼ばれるものを、悲しみとの関わりから離れることと知りますように

落胆しない考えを持ち、目的をはっきりと見据え、そのヨーガが追求されるべきです

-

どんな考えも、意識[アートマー]から離れて存在しない、すなわちアナートマーは、一瞬たりともアートマーから離ていません。

ヴィヨーガは、アートマーとアナートマーの識別を意味します。

それは、結束より、むしろ離れること[ヴィヨーガ]で、束縛からの解消です。

ポットが、土を束縛できない様に、アナートマーである考えが、アートマーを縛りつけたり出来ません。

移り変わる幸せ[スカ]は、時間や様々な他の状況に頼っていて、状況が変われば、どんな経験であれ消えてしまいます。

しかし、体験上のものでなく、無知ゆえの勘違いの結びつきからの解消であれば、それは消えたりしません。

この解消が、知識による解消[ニャーネーナ ヴィヨーガハ]です。

2つのポットの間の関係の様に、物理的な関係の解消ではなく理解であり、またアートマーは、アナートマーと関わりなどないので、引き離す必要もありません。

結びつきより、むしろ解消であるこの知識を、ここではヨーガと呼んでいます。

「悲しみによる自己認識から、離れることがヨーガと知りますように[タム ドゥッカ・サムヨーガ・ヴィヨーガム ヨーガム ヴィッデャート]」とクリシュナは言いました。

アートマーとアナートマーを結び付ける要因は、無知[アヴィッデャー]ですから、その結合を解くのは、知識[ヴィッデャー]です。

ドゥッカ・サムヨーガ・ヴィヨーガは、何かを失うという疑いもないし、それ以上に素晴らしいものもありません。

そして、それ自体が目的で、自分自身ですから、結びつくことではなく、むしろ違和感[ドゥッカ]から引き下がることなのです。

重い荷物は、持ち上げるより、落とす方が簡単ですが、ここで落としていくものは無知ですから、その無知、すなわち自分自身の間違った観念を落とすのは、そう簡単ではありません。

ア・ダルマが横行するカリ・ユガでは、神に明け渡すなら、全てをうまく計らってくれると言う人もいますが、全てが神であるのに何を明け渡すのでしょう?

神は、何も手に取りませんから、明け渡してなどいません。

「膨れ上がったエゴを、抑制するために、自分自身を明け渡します」と言う人もいますが、間違ったエゴは明け渡せても、私を明け渡すことなど出来ません。

この「私」を委ねる為の、別の「私」が必要ですから。

明け渡したい、委ねたいと考えるその「私」が、エゴだと見抜くことが、明け渡しであり、知識です。

これが、成されなければならないヨーガ、すなわち練習されるべきものだと言われました。

「1+1=2」を二歳児に理解させたくても上手くいかない様に、考えの準備ができていなければ、無知を落とすのは困難です。

しかし、必要な準備が出来たなら、子供にとっては簡単な様に、既に、私が朗らかでご機嫌であるなら、私はブランマン、私は全体である、ということを理解するのは簡単です。

祈り深い生活をするなら、サムサーラは、考えの準備を与えますし、かなり朗らかな人にします。

私がアーナンダであることを理解する為には、かなりご機嫌で朗らかさが必要ですから、ヴェーダーンタは、朗らかな人の為にあります。

ヴェーダーンタは、サムサーラの一般的な悲しみの答えとなるようなものではないので、アシュターンガ・ヨーガや他の鍛錬を含んで、カルマ・ヨーガがあるのです。

そうでなければ、ヴェーダーンタは、また別の嫌な存在になるだけでしょう。

カルマ・ヨーガにおいて、資質が十分に備わっている必要などなく、これは祈り深い生活を送ることを意味し、ヴェーダーンタの知識のための考えを準備します。

この知識が起こると、自分自身に関する全ての観念が落ちますから、なされねばなりません[ヨークタッヴャハ]。

例え難しくとも、全ての追求が自分自身のためで、問題を解決する唯一のものですから、それよりも魅力的で、意義深いものなどありません。

落胆しない、いらいらしない、飽きのない[アニルヴィンナ]考えで[チェータサー]、明確さを持ち、何が真実で、何が真実でないのかを理解することで[ニシュチャエ-ナ]この知識を探究します。

 実際、根本的な矛盾に陥ったまま一生を終えるのが人間の普通の在り方[サムサーラ]ですが、人はその悲しみによる自己認識からの解放を求めています[ドゥッカ・サムヨーガ・ヴィヨーガ]。

バガヴァーンは、ヴィヨーガの意味で、「ヨーガ」という言葉をこの詩で使いました。