यं सन्न्यासमिति प्राहुर्योगं तं विद्धि पाण्डव।
yaṃ sannyāsamiti prāhuryogaṃ taṃ viddhi pāṇḍava।
न ह्यसन्न्यस्तसङ्कल्पो योगी भवति कश्चन॥६.२॥
na hyasannyastasaṅkalpo yogī bhavati kaścana॥6.2॥
パーンドゥの息子よ、手放す[サンニャーサ]と言うことはカルマ・ヨーガと知りなさい。
(勘違いからの)サンカルパを手放していない人は、カルマ・ヨーギーではありません[2]
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サンカルパは、お金を稼ぐ、地位を高める、プンニャを稼ぐなどの欲望に勢いを与えるものです。
カルマ・ヨーギーは全ての(勘違いからの)サンカルパを手放していますが、考えをきれいにする為に行いをし続けます。
今までは安全[アルタ]、喜び[カーマ]の価値を置いていましたが、今はダルマ、イーシュワラに価値を置いています。
価値構造がダルマ、イーシュワラに変化した人がカルマ・ヨーギーです。
(勘違いからの)サンカルパを手放すのではなく、ただ行いを手放すだけならば、その人はカルマ・ヨーギーでも、サンニャーシーでもありません。
カルマ・ヨーギーは、ダルマ・アダルマに対立するラーガ・ドヴェーシャを手放すことで(勘違いからの)全てのサンカルパを手放すのです。
一方、真のサンニャーシー[パラマールタ・サンニャーシー]は、ラーガとドヴェーシャも、行い[カルマ]も全て手放しています。
サンニャーシーは、知識によって「行い手である」という観念を手放すことでサンカルパを手放すのです。
クリシュナは、知識を求めサンニャーサの生活を選んだ人[ヴィヴィディシャー・サンニャーシーorカルマ・サンニャーシー]のことを指し、第6章1番目の詩でサンニャーシーという言葉を使っています。
全ての(勘違いからの)サンカルパを手放したカルマ・ヨーギーとサンニャーシーは、ここでは同じ様なもの、ヨーギーはサンニャーシーの様なものなのです。
第6章の主題は、瞑想[デャーナ・ヨーガ]で、その為にカルマ・ヨーガも必要です。
クリシュナは、ただ行いを放棄する様な、単なるサンニャーサと相反するものとしてカルマ・ヨーガを讃えています。
瞑想は、意志による行いですが、考えの準備が出来ていない限り、それは効果的ではありません。
考えが考え自体で留まること[ニディッデャーサナ]、瞑想の対象に留まれること[ウパーサナ]がデャーナ・ヨーガです。
カルマ・ヨーガは考えの準備の方法手段、つまりデャーナ・ヨーガの為の方法手段です。
カルマ・ヨーガとデャーナ・ヨーガには、モークシャの為の外側の手段と内側の手段という繋がりがあります。